ホーランエンヤ体験記/武林諒
渡御祭(2019年 5月18日土曜日)

 
 朝5時30分に起床、6時10分に城山稲荷神社についた。なぜこんなにも早い時間に神社にいたかというと、祭りの準備の手伝いのためである。去年の後期に諸岡先生の授業であるフィールドワーク論の一環で、半年にわたってホーランエンヤについて学んだ。そこで、より祭りを知るために奉賛会の渡利さんにインタビューさせて頂いた。その縁あって、渡利さんから前の週に「人手が足らないから祭りに出てくれ」と声をかけてもらったのである。
 
 眠たい目を擦りながら、境内の落ち葉掃きやパイプ椅子の準備、鳥居前での参列者や見物者の対応をしていた。そこには、県知事、市長、県議会議員、阿太加夜神社関係者、五大地関係者、周辺地域の関係者が集まっていた(写真1)。その頃、社殿の中では、着々とリハーサルが行われていた(写真2)。
 

 
写真1 集まる関係者

 

 
写真2 社殿でリハーサル

 
 そして、8時45分ごろに式典が始まった。式典は、選ばれた人しか参列できないのだが、渡利さんが手伝ってくれたお礼にといって参列をさせてくれた。この時の優越感はハンパなかった。式典の際はずっと県知事の後ろでみていた。そのため、式典の際の写真のほとんどは県知事の後頭部が一緒に写っている。
 
 最初の儀式として、お神酒や祈祷の際に使う榊に城山稲荷、阿太加夜の両神主が祈祷をされた。この儀式は、写真を撮ってはいけなかったが、始まる前の準備の様子や儀式を行うための施設は撮ることができた(写真3)。式典も最後の方になると、五大地の人たちが呼ばれ、松江大橋の北詰に向かう列がつくられ始めた。そして、列の最後に城山稲荷神社から神様を乗せた神輿が運ばれ、五大地の代表者10名が神輿を担いで城山を後にした(写真4)。
 

 
写真3 儀式の様子

 

 
写真4 神輿

 
 城山を出る際には、多くの見物者にあっという間に囲まれて、前に進めない状況になった(写真5)。10時から12時まで学校で集中講義があったために私はここまでしかおられず、その後の水上での櫂伝馬踊りを見ることはできなかった。
 
 
 
写真5 行列と見物者

 
 12時に集中講義が終わり、午後からは阿太加夜神社へ船神事を見にでかけた。行く足が無かったため、諸岡先生の車である。諸岡先生と途中のラーメン屋でお昼ご飯にした。14時ごろから船が松江港周辺から阿太加夜神社に向かうことが予定されていため、お昼ご飯を食べた後は、ラーメン屋の近くの、川を眺めるのにちょうどいい手間天神前の跨線橋で船を待つことにした。
 
 跨線橋の上で30分くらい待ち、14時30分になった。予定では、目の前を通り過ぎる頃なのだが、なかなか船は姿を現さなかった。すると諸岡先生が「ボイコットしたんじゃないか」「宍道湖の方に向かって行ったんじゃないか、今年から川から湖の時代に変わったんじゃないか」など妄想をし始めた。私も、「世は大航海時代ですね」など妄想し始めた。人間暇になりすぎると、ありもしない話をでっち上げるのだなと思った。しかし、この妄想のおかげで飽きることなく時間をつぶすことができた。結局、1時間ほど待つと、目の前を数隻が通り過ぎた(写真6)。
 

 
写真6 ラーメン屋近くの歩道橋からの景色

 
 15時15分に先生と出雲郷橋まで移動したが、そこはもうすでに人だかりができていた(写真7)。人だかりを見て、なかなか見ることは厳しいのではと思っていたが、運良く川面が見える位置に行くことができた。先生は、この人だかりを予想して脚立をもってきていた。近くの公園では、ジャングルジムに多くの子どもが登って川の様子を眺めていた。ジャングルジムは特等席で、子どもの特権だなと感じた(写真8)。
 

 
写真7 出雲郷橋の人だかり

 

 
写真8 ジャングルジム

 
 渡利さんには意宇川で舞を見るのがおすすめだと聞いて、とても楽しみにしていた。15時50分になり、出雲郷橋に着いてから30分くらいが経った。待てど暮らせど一向に船は来る気配がなかった。今日はこの後バイトがあり、16時10分までしかこの場にいられない状況だった。朝から長時間祭りをみているのにもかかわらず、まだ船神事を見ることができていない。
 
 16時になりやっと船が見えたが、それは神輿を乗せた船で少しがっかりした(写真9)。その5分後にやっと五大地の船が見えた。しかし、16時10分になりタイムリミットとなった。結局、舞を見ることができなかった。
 

 
写真9 神輿を乗せた船

 
 船を見ることをあきらめて、車を駐めていた武内神社の駐車場までダッシュした。最初のスタートダッシュを決めた武林だったが、前半に飛ばしすぎて後半に失速した。前半に武林に50mほど差をつけられていた諸岡先生だったが、元長距離選手だったこともあり、信号の前で武林を抜いた。そのまま、30mほどの差で諸岡先生が先に車につき、祭り一日目が終了した。
 
〜裏話〜
【祭と酒】神社関係の船には、神輿船以外に各地域の代表者を乗せた船がある。前回の祭りでは、その代表者らが船の上で飲み会をして、酔った勢いでちょっとした粗相があったらしい。それを知った奉賛会や商工会議所が「神事の際に何やっとるだ!」と激怒し、今回は口を酸っぱくして祭り関係者に船上での飲酒に注意を呼び掛けたのだとか。祭りと酒は切っても切り離せない関係だと思った。
 
【矢田事情】五大地の一つである矢田は深刻な人手不足に悩まされている。祭りに出ている人の約半分は、矢田の隣の地区である朝酌の人たちである。朝酌の人を借りても、祭り参加人数が一番少ないのは矢田であった。
 
 船の先頭に座っている人を矢田では、はやすけと呼んでいる。はやすけの役割は、棒を持って川底の深さを測り、船を左右に操ることである。今のはやすけは、深さを見た後に船のスクリューを操っている。櫂伝馬踊りのときも、基本の動力はスクリューであるらしい。
 
【救命胴衣】この祭りに際して海上保安庁は、船に乗る人全員に救命胴衣(ライフジャケット)の着用をお願いしたが、奉賛会が「馬鹿なことを言うな!」「救命胴衣を着て舞を踊ることができるか」「伝統を壊す気か」など海上保安庁に猛反対した。最終的には、五大地の櫂伝馬船以外の船に乗る人は救命胴衣を着用することで話は落ち着いた。現代のコンプライアンスは、伝統の前では通用することができないと感じた。
 
【船が遅れた理由】祭りの後、バイト先で矢田の方から聞いた話によると、神社から松江大橋北詰までの行列の到着が遅れたからすべての神事の進行が遅れたと言っておられた。後日、渡利さんに話を聞いたら、神社から松江大橋北詰までは予定通りについたが、市役所が出す船の出発の合図がとても遅れたため、最初に出るはずだった大海崎船がなかなか出発できなかったとのことだった。矢田の方の話と渡利さんの話に違いがある。そこが面白いと感じた。
 
〜感想〜
 初日は、とても忙しいスケジュールだったため、悔いの残るものとなった。祭りなど行事は、思い通りにことが運ばないものだと感じた。しかし、本来なら見ることのできない場所や儀式を見ることができて、とても良い経験ができたと感じている。祭りが10年に一度ということもあり、人の多さやメディアの注目度を体感することができた。祭りの雰囲気や規模感など、インタビューや勉強で分からない部分も実際に見ることで知ることができた。初日だけでも自分の身になるような体験や経験をすることができた。
 
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