池田
ホーランエンヤ体験記/2009年5月20日、中日祭


 
 2009年5月20日、非常に暑い日だった。この日、私はテレビでもパンフレットでもなく、生のホーランエンヤを肌で感じた。もちろん人生で初めてのことであった。
 
 午前10時に1コマの授業を終え、国道9号、松江から東出雲へと自転車を走らせる。12年に一度、極めてまれな出来事を目にすることができるという期待に胸をふくらませていた。
 
    午前11時15分ごろ目的地近くのコジマ電機に到着。そこに自転車を置き、目的地へと歩く。中日祭が行われる阿太加夜神社、出雲郷橋、意宇川周辺は雰囲気がまるで違う。櫂伝馬踊が始まるのを今か今かと待っている観客の気持ちが少し離れた所からでもひしひしと伝わってきた。
 
 櫂伝馬踊が行われる意宇川のそばへ近づくと、人、人、人。川に架かる橋、川の両側は人で埋め尽くされており、噂通りの状況である。橋の上でカメラを準備されていた林先生にあいさつをし、川の東側の岸に向かった。川の西側には、竹矢小の子どもが全員マスクをつけ、行儀よく列になって座っている。ある女性は知り合いと話しながら、ある男性は一眼レフを片手にその時を待つ。テレビ局のカメラマンもいる。会場について数分しかたっていないのに、ホーランエンヤは老若男女が注目するものなのだと認識した。長谷川先生を探しながら歩いていると、櫂伝馬船の最前線で踊る人が同じ地区の人たちと談笑したり、一般の観客と写真を撮ったりしていた。そのような姿を見ているとホーランエンヤという大きな行事にもかかわらず、町内祭りのようなものにも感じられた。川の東側には櫂伝馬船がすでに五地区ともそろっており、いつでも櫂伝馬踊を始められそうだった。櫂伝馬船に乗っている人たちを見ると、漕ぎ手は40〜50代といったところであろうか。踊り手は化粧をしているので顔はよくわからなかったが、雰囲気からおそらく10〜20代の若者だろうということを推測した。漕ぎ手は年齢のせいもあってか、非常に落ち着いた様子だった。踊り手の表情はよくわからなかったが、緊張しているだろうなと思いをめぐらせてみた。
 
 長谷川先生に合流し、カメラをカバンから取り出す。あとは始まるその時を待つのみである。そして、その時は訪れた。船が動きだすとともに、観客からは大きな拍手。その様子は、まるで櫂伝馬船に乗っている人たちに頑張れよというメッセージを送っているかのようだった。一番手は大海崎である。音頭取の威勢のいい声に合わせ、剣櫂、采振が踊り、櫂掻が一糸乱れぬ櫂さばきを見せる。私ははじめ圧倒されたが、これでは調査にならないぞと言い聞かせ必死でシャッターを切った。私が最初に感じたことは櫂掻が見せる一糸乱れぬ櫂さばきが非常に美しいということであった。遠くから見ているとまるで生き物のように動いているのである。7、8本の櫂が一斉に動くので船の翼が生えたようで今にも空に向かって飛んで行ってしまいそうなのである(写真1)。櫂伝馬船の最前線で踊る剣櫂も注目に値する存在だった。圧巻だったのはその表情である。精悍な顔つきで剣櫂を振るその姿は非常にかっこいい。あの姿は多くの人々を魅了したことだろう(写真2)。
 
写真1 一糸乱れぬ櫂さばき写真2 力強い踊りを見せる剣櫂
 
 二番手、三番手と違った地区の櫂伝馬船が出てくるにつれて、気づいたことがいくつかあった。まず、最前線で踊る剣櫂の踊り方が地区によって異なるのである。これは、異なるといってもほんのわずかであって、私もしばらくは違いに気が付かなかった。剣櫂の踊りは持っている剣櫂を切れよく振り回す。時折、上空に向って手をかざす。「ホーランエンヤ」の掛け声に合わせて、体を少し反らすと同時に持っている剣櫂を勢いよく前方斜め上に突き出す。見る限りこれが決めポーズである。この時が、踊っている人も観客も一番気持ちがいいのではないかと思った。采振の踊りにも違いが見られた。これも違いはわずかなものだった。采振は七色の布(または民芸紙)を重ねつけた采と呼ばれる竹の棒を振り、酒樽の上に立ち、体を限界まで反りかえし踊る。バランスを崩してこけてしまわないだろうかと心配になるが、よく見ると、紐で酒樽に足を固定していた。剣櫂とは対照的で、力強さではなく柔らかさが感じられた(写真3)。
 
写真3 美しく、柔らかく舞う采振
 
 櫂掻の櫂さばきにもそれぞれ地区ごとのやり方があるようだった。「一糸乱れぬ」という表現はどの地区にも当てはまるが、櫂をさばくスピードに緩急があるところと無いところがあり、違った印象を受けた。私が最もすばらしいと思ったのは、大海崎の櫂掻の櫂さばきである。五地区の中で唯一櫂さばきに緩急をつけていたからである。大海崎の櫂掻は櫂を水平にしたとき、手首をひねって櫂を90度回すのである。そこのスピードの変化が見るものにとっては、非常に痛快であった。他の地区にはこのような効果的な動作は見られなかった。各地区は、音頭取が放つ「ホーランエンヤ」という掛け声にもその独自性を含ませていた。この音頭取の掛け声の違いは明瞭だった。音程、イントネーション、声は人によって違うものだが、それを抜きにしても各地区がそれぞれの独自性を示しているように見えた。地区の威信をかけて音頭取が競っているような印象を受けた(写真4)。
 
写真4 威勢の良い声で全員を鼓舞する音頭取
 
 当然衣装も違う。櫂掻は背中にそれぞれの地区名がプリントされた法被を着ており、色や柄も違う。法被は福富のものが気に入った。エンジ色にオレンジ色のラインがベストマッチだった。剣櫂の衣装も地区ごとに異なっていた。剣櫂は歌舞伎風衣装に化粧回しを模したものをまとっていたが、地区によって衣装の色はさまざまであり、派手な色の地区もあれば、シンプルな色の地区もあった。髪型もトップのボリュームのあるものやちょんまげ風のものがあった。私は、大海崎の黒いシンプルな衣装にひかれた。采振の衣装は黄色、ピンク、赤、緑という派手な色で花柄の衣装を採用しているところもあれば、紺色の質素な衣装を採用しているところもあった。采振の衣装は、馬潟のものが一番気に入った。絶妙なピンク色で、見る者に癒しを与えてくれるような色だった。
 
 ちょっとしたトラブルも見られた。矢田の櫂伝馬船が曲がりきれずあわや川の東側の観客に突っ込むところであったが、練櫂と呼ばれる舵取りが大きな櫂を使い、必死で櫂伝馬船を食い止めていた。このような状況を想定した人員配置に感心した。
 
 五地区の櫂伝馬船踊が終わると、袴、スーツ姿の世話役の人と思われる人たちがモーターボートで登場。モーターボートには「馬/供船1」という旗が見られた。これは1〜12まであった。馬潟の法被を着た人も乗っていた。 櫂伝馬船踊が終わり、阿太加夜神社の近くで昼食を済ますと、休憩に入る。しかし、のどが渇いてどうしようもないので、自動販売機を探しに歩きに出る。結局見つからず、陸行列が通る道のところまで行くと、鎧を着て「山中鹿之助を大河ドラマに」という旗を持つ集団を発見する。さらに歩くと、午前中に櫂伝馬船踊が行われた意宇川のところまで出て、そこで長谷川先生と合流。午後の陸行列に備えて準備が始まる。
 
 午後は1時ごろから櫂伝馬船が方向転換をするところの近くに陣取り、今度はビデオカメラを片手にその時を待った。櫂伝馬船が陸を走るという奇妙な光景をカメラに収めつつ、近くで見るとやはり迫力があるなと感じていた。カメラを持っている腕がこの上なく辛いので、他の人と交代し、ぐったりと地面に座り込む。正直、暑さでまいってしまっていた。陸行列が通り過ぎると、櫂伝馬船踊奉納を見るため、阿太加夜神社に向った。境内の一角にはテントが張られ、松浦市長も見学に来られていた。各地区の剣櫂、采振、音頭取などがこの日三度目の櫂伝馬船踊に臨む。体力的にはもう限界だろう。観客の私でさえ立っているのも辛かった。しかし、彼らは衰えを感じさせないパフォーマンスを見せる。伝統の重みが彼らを突き動かすのだろうか。(写真5)途中、写真係の人たちの間でごたごたもあったが、中日祭は午後4時半ごろ無事終了した。
 
写真5 最後の力を振り絞り踊る
 
 その後、大学に向け自転車を走らせる。足が痛いので自転車のサドルを最大限まで高くし、自転車を置いていた阿太加夜神社近くのコジマ電機を出発。中海大橋を渡り、大橋川に沿って松江へと向かう。日曜日の還御祭はもっとしんどいだろうなと思いながら今日のことを振り返っていた。この時私は、日曜日の還御祭に行くつもりでいたので、この日が今年最後に見るホーランエンヤだとは思ってもみなかった。実は日曜日は急用ができ、還御祭に行くことはできなかったのである。私にとって今回のホーランエンヤは人生最初で最後のものになるのかもしれない。
 
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