ホーランエンヤの歴史


 
 
『松江のホーランエンヤ』(1992年)などによると、式年神幸祭(ホーランエンヤにつながる城山稲荷のお祭り)がはじまったのは17世紀半ば。引船が出るようになったのは1808(文化5)年、櫂伝馬(かいてんま)船の踊りがはじまったのが1848(嘉永元)年ではないかという話です。江戸時代以降、段々といまのような姿になってきたというわけのようです。
 
明治以降のホーランエンヤ開催年は以下の通り。
 
     1870(明治3)
     1881(明治14)
     1892(明治25)
     1903(明治36)
     1915(大正4)
     1929(昭和4)
     1948(昭和23)
     1958(昭和33)
     1969(昭和44)
     1985(昭和60)
     1997(平成9)
     2009(平成21)
 
 と、このように約10数年ごとのペースで開催されており、厳密に定期的に行われているわけではありません。実際、2009年開催の時点では「12年ごと」という説明がされていましたが、あいだが長すぎるというので、(おそらく松江市の意向としては)10年ごとくらいにしていきたいようです。
 最近、第1回を1648年と特定して、今年のものを第34回としている説明がありますが、実際には未確定の部分が大きいので、その数字はあやしいと思います。次回は2019年(平成31)あたりになるんでしょうか。
 
 ハーンのお気に入りだったという城山稲荷については、『雲陽誌』の説明をちょっと引いておきましょう。
 
「城の内曲輪に社あり、宇賀魂神八幡を合祭なり、祭礼は二月初午の日なり、此稲荷は寛永十五年太守源直政公此国を賜り入部したまふ、旧領信濃国松本の邑に居たまふ時斯神を崇敬したまへり、同十七年ある夜の霊夢に神白狐に化して松本の邑より当国に来たまふと告ありて、此ところに社を建勧請したまふなり、委事は同郡北田町普門院の記にみへたり、慶長年間堀尾帯刀吉晴当国能義郡富田の城を此所へうつさむとて地形ありけれは、色々怪き事おゝく普請も滞けるにより、意宇郡蘆高の神職松岡兵庫に仰て祈祷し普請成就したり、故に蘆高の神司当社の神職を兼勤なり、実に此神は当家の守護神也」
 
 ・・・と、蘆高神社つまり今の阿太加夜神社との繋がりについても記述があるわけですが、寛永の話と慶長の話がごちゃごちゃになっている上、別のところでは松岡兵庫はホーランエンヤの起源にも関わっていたりして、もうひとつ前後関係がよく分からなかったりします。その内また、もうちょっと調べてみるということで、ひとまずはお茶を濁しておきたいと思います。
 

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