『中世禅宗史の研究』(東京大学出版会、1970年)、77-138頁。本論文の内容は、『国史大事典』における同著者による記事(「安国寺」)に簡潔にまとめられている。

 夢窓疎石の勧めにより、足利尊氏・直義の兄弟は、平和を祈願し、元弘以来の戦死者の遺霊をとむらうために、暦応元年(一三三八)ころから貞和年間(一三四五―五〇)にかけて約十年ほどの間に、全国六十六ヵ国二島にそれぞれ一寺一塔を設け、各塔婆には朝廷から仏舎利二粒が納められた。ついで貞和元年(一三四五)二月六日、光厳上皇の院宣によって、寺は安国、塔は利生と名づけられた。このうち、利生塔は真言・天台などの旧仏教の大寺院に設ける方針であったらしいが、各国の特殊な事情により、山城・相模・駿河など五山派の禅寺に設けられた場合もあった。現在遺構の残っているものは一つもないが、京都八坂の法観寺五重塔のほか二十八ヵ国の利生塔の所在が認められる。その形体は五重塔が多かったが、三重塔の場合もあったようである。これに対して、安国寺はすべて各国守護の菩提所である五山派の有力禅院が指定された。・・・・・・

 このような寺塔の設置は、その土地領有の標章ともなるものであるから、その存在はその地方が室町政権の統治下にあることを示しており、したがって、各国守護を通じての勢力範囲の維持にも役立てられ、同時に幕府および守護にとって、軍隊の屯営、前進拠点、あるいは軍略上の要衝という一面も持っていた。さらに、南朝の残存勢力をも含めた反幕勢力を監視抑制するという目的もあったであろう。このように、安国寺・利生塔の設置は、民心の慰撫と平和の祈願という本来の宗教上の目的のほかに、各国守護の連合に依存していた室町初期政権が、各国守護を掌握し、治安維持の強化を図るために、各国守護の菩提寺などに寺塔を設置し、幕府の威信を宣揚するとともに、守護統制にも役立たせ、幕府権力を組織的に扶植し、幕府の支配体制をいっそう円滑にしようという政治的意図があったことが知られる。
 しかし、推進者である直義の失脚、ついで尊氏の死去に伴って、寺塔設立の目的も忘れられ、守護層の変動や五山派の発展によって、三代将軍義満のころにはほとんど名目だけのものとなり、幕府が積極的に整備をすすめていた十刹や諸山などの五山の官寺機構のなかに組みかえられていった。

安国寺・利生塔については辻善之助の説が定説化していたが、本論文はそれを大幅に見直すものである。

各地の利生塔に納められた68粒の仏舎利は、東寺から奉納されている。利生塔は旧仏教勢力の懐柔を、安国寺は従来から存在していた禅刹(禅宗五山派)を安国寺として認定しなおすことで各国の守護勢力(武家)の掌握を狙っていたとのことで、本論文では、安国寺・利生塔とも、その設立について死者供養の意図以上に政治的目的によるという側面が強調されている。

上の記事にあるように、夢窓疎石の死去や足利直義(ただよし)の失脚によって、幕府の政策としての安国寺・利生塔は意義を失っていき、義満による五山・十刹・諸山という中央集権的官寺制度の充実整備政策に取ってかわられていったという。

なお、この論文は四半世紀以上前のものだが、その後の研究動向についてはまた今度、気が向いたときに調べてみるということで。

[J0492/240730]