Month: May 2023

中澤篤史『そろそろ、部活のこれからを話しませんか』

副題「未来のための部活講義」、大月書店、2017年。

第1章 なぜ部活は成立しているのか
第2章 部活はいつ始まったのか
第3章 なぜ部活は拡大したのか
第4章 いま部活はどうなっているのか
第5章 部活の政策は何をしてきたのか
第6章 生徒の生命を守れるか―死亡事故と体罰・暴力
第7章 教師の生活を守れるか―苛酷な勤務状況
第8章 生徒は部活にどう向き合っているか
第9章 部活の未来をどうデザインするか

教師の過重労働が大きな問題となってきた中、その根源のひとつとも目されている部活動。その歴史と現状をたどる一冊、もともと著者は『運動部活動の戦後と現在』(2014年)という研究書を出版しており、その成果を盛り込みながら一般向けに書かれたのが本書。部活動という重要でありながら、研究の乏しかった領域に見通しを与えつつ、分かりやすく説明。内容には批判もされているようだけど(2014年本における「資料曲解」の指摘に特化した論文まであるもよう)、社会問題の研究者としてなんと立派な仕事だなと(まったく皮肉ではなく)。『部活動の社会学』の内田良さんたちの調査研究もそうであったが。本書から6年、現実はどこまで変化したのだろうか。部活関係者や文科省の人にはみんな読んでほしいし、こういう本をみんなが読んで議論する日本社会であってほしい。

記述についておもしろいと目に付いたのは、たとえば、運動部活動の活動日は、1950年代に週4日前後だったものが、1990年代や2000年代には週5~6日に増えてきたという話。あるいは、中学生における学校外活動(習い事などか?)への参加は富裕層で盛んだが、部活動は家庭事情に左右されないという調査結果(西島央編『部活動』が典拠)。「この点を忘れて部活を地域に移してしまえば、経済的に豊かでない家庭の生徒が、活動機会を得られなくなってしまう」(81)。

部活動が、よくもわるくも、教育の機会、教育活動そのものになってしまって、それだけに教師や学校から切り離せなくなっているという著者の指摘(110-111)。いやいや、そうなんだよね、たぶん。加えて、部活を嫌う生徒もいれば、部活をやりたがる生徒も多い。軽いしかたながら著者が触れているとおり(246-)、ほんとうにその「欲望」を全部、教員や学校が引き受けるべきなのかという問題がある。

[J0370/230530]

長谷川町蔵・大和田俊之『文化系のためのヒップホップ入門2』

アルテスパブリッシング、2018年。

Introduction いま一度、How To ヒップホップ入
第1部 ゼロ年代のヒップホップ:『文化系のためのヒップホップ入門』復習編
第2部 2012年のヒップホップ
第3部 ジャズ×ヒップホップ[1]ゲスト:柳樂光隆
第4部 2013年のヒップホップ
第5部 ジャズ×ヒップホップ[2]ゲスト:柳樂光隆
第6部 2014年のヒップホップ
Postscript あとがきに代えてお送りする深夜のチャット再び

2011年に出版された第一弾に続いて、目を通してみる。第二弾である本書のキャッチは、2012年から2014年のシーンを振り返るとなっている。前作がしっかり一冊の本という体裁になっていたのに対し、今回は雑誌記事を読んでいるような感覚。

今回は、ヒップ・ホップの現場だけでなく、日本での「聴かれ方」にも焦点があり、簡単に言えば、前作よりも知っているアーティスト名が多く出てきて、その分読みやすく、その分情報量が少ないとも言える。

大和田さんが、イギリスのフィルターがかかると「アメリカ的なダサさとかイナタさが殺菌されて、とてもキレイなサウンドになる」と、ブラン・ニュー・ヘヴィーズの「真夜中のオアシス」のカバーだけは許さないと言っているくだりなどは(僕は許せる派だが)、なるほどそういう感覚は分かる気がするな、と。まあでも、アメリカ音楽の話ではあっても、ヒップ・ホップの話ではないね。

ほかに興味深い話題としては、PSYやBTSのアメリカでの成功の話。まさに、新時代の現象で、おそらくヨーロッパの状況とも違うのでは? また、日本の歌謡曲がサンプリングされているという指摘があって、例の「シティポップ・ブーム」を考える上でも、ヒップホップという角度からの示唆になっている。具体的には、豊島たづみ「とまどいトワイライト」をサンプリングしたヤング・ジージーの「Seen It All」や、ハイ・ファイ・セット「スカイ・レストラン」をサンプリングしたJ.コール「January 18th」などが挙げられている。

[J0369/230527]

米原万里『オリガ・モリソヴナの反語法』

集英社文庫、2005年。原著は2002年。小説だし、まったく自分の読書傾向には入ってこないのだが、なんでかポチったものを読了。ポチったのは、かつてのチェコやソ連の状況が分かるから、みたいな理由だったろうか、それも覚えていない。たしかに、なかば、1960年代にチェコのソビエト学校に学んだ著者の実体験にもとづいた物語であるらしい。

解説の亀山郁夫氏のように、「女ドストエフスキー」とまで持ち上げる勇気はないが、たしかに場面転換のしかた(多くは物語中物語で回想やノートの記述なのだが)は、ロシア小説のように演劇的。また、登場人物や時代がつぎつぎ入れ替わっても、読みにくくない。人物描写で言うと、主人公たちがその足取りをたどっているオリガ・モリソヴナの矜持あるキャラクターが、ラーゲリへの強制収容等々といったた陰鬱な舞台設定にもかかわらず、この物語全体の雰囲気をどんよりとしたものにはさせていない。

ふだん小説を読まない僕なので、かなりがまんもしながらこの長編のページを繰っていったわけだが、最後のどんでん返しのところではびっくり。どんでん返しのストーリー自体もそうだけども、これってまさに、精神の障害を負った人が最期に正気をとりもどす「終末期覚醒」ではないか。この部分はフィクションだろうか。終末期覚醒で学術論文書いた人って、僕を含めて日本にひとりとかふたりとかだと思うけど、めったに読まない長編小説の結末でこの主題に出くわすとは、なんとも奇遇。

ほかにひとつ、ロシア小説一般との比較も想定しながら指摘するとすれば、チェコやロシアの話のわりに、宗教やそれに関した心性を感じさせる部分がないんだよね。最後の告白では「天国」や「最後の審判」という表現が出てくるんだけど、どうしてか、どこか比喩的な表現のように響く。そのへん、日本的な視点から書かれた小説と言えるかもしれない。

[J0368/230525]