天理市を訪ねる機会があったので、本部近くの本屋さんで購入して読んでみる。もちろん天理ラーメンも食べました。天理市というあれだけの街を作った信仰と考えたら、凄い。自分は天理教の知識はないので、以下は、本当にこの伝記を読んだだけの感想。本書は、天理教教会本部名義で編纂され昭和31年に出版された、教団としての正史であって、そういう性格のテキストであることは考慮しておく必要がある。

第一章 月日のやしろ
第二章 生い立ち
第三章 みちすがら
第四章 つとめ場所
第五章 たすけづとめ
第六章 ぢば定め
第七章 ふしから芽が出る
第八章 親心
第九章 御苦労
第十章 扉ひらいて

「おやさま」と呼ばれている教祖、中山みきは1798年生まれ、1887年(明治20)に亡くなっている。天保9年(1838)40歳ほどのときに、「元の神」(「月日」、天理王命)の啓示が下るが、それまでは浄土教の篤信者であったとのこと。浄土和讃に親しんでいたとの話は、歌という形をとっている、のちの「おふでさき」のことを思い起こさせる。元の神の啓示を受けて「月日のやしろ」となったみきだが、そのきっかけとなったのが、修験者の寄祈祷だったことも興味深い。

みきが「生き神様」として知られるようになったきっかけは、「をびや許し」と呼ばれる安産祈願からとのことだが、とにかくきっかけになっているのは病気治しで、病気治しを受けた人が「つとめ」として信心やさらなる人助けに励む、という流れが中心になっている。たしかに、みきの思想には甘露台(天理教本部の中心地)を人類の発祥の地とするコスモロジーが重要な位置を占めていて、ときに世直し的なことを読み込めないこともないが、本書を素直に読むところでは、とにかく徹底しているのは、病気治しを中心とする、信心をつうじた人助けであり、人助けをつうじた信心である。その信心とは、具体的には、「てをどり」や鳴物を必須とする「みかぐらうた」による「おつとめ」である。この伝記のナレーターは、何度も何度も「急(せ)き込む」という表現を用いて、みきが切迫感をもって真の信仰の広がりを求めたように書いているが、本書におけるみき自身の発言だけを追うと、あまりそこまでの感じもしない。官憲による弾圧や拘留も、むしろ淡々粛々と応じている印象。「おふでさき」にもまた目を通そうと思うが、むずかしい理屈は言っていない。

神(天理王命)に対する呼び名は、「(元の)神」から「月日」となり、さらに明治12年からは「をや」(親神)と変遷したそうだ。みきは、生き神様とあがめられ、信者がみきに柏手を打つようなこともあったようだが、自身を「神」と重ねるような言動はない。同時に、「おふでさき」以外にはいちいち神に取り次ぐ、という感じでもなく、みき自身が信者たちと向きあっている印象だ。天理王命が自ら名乗りをあげて啓示をしている場面は、最初の「憑依」のところだけかもしれない。金光教の主神である金神が教祖・金光大神(川手文治郎)の信心を試したときのような場面はなく、みきの考えや言動が親神の思うところとずれたり、みきが親神の考えを解釈しそこねたりする場面の描写はない。「教祖(おやさま)の心は月日の心、月日の心とは親神の心である」(164)。神の性格をあれこれ記述するようなこともなく、メッセージはもっぱら信者のふるまいに向けられている。それだけに、逆に天理王命には(神なのだから本来おかしな表現だが)人格としての存在は薄く、あくまでみきを通じ、その働きをもって信者たちに存在を示している。

明治8年の「おふでさき」のようだが、「つとめの手」として、臨機応変的な「よろづたすけ」に加えて、12種類の願いに応じた「つとめの手」として、をびや(出産)、ほふそ(疱瘡)、一子(少産?)、跛(身体障害)、肥(豊作)、萠え出(出芽)、虫払い(害虫)、雨乞、雨あずけ、みのり、むほん(不和?)が列挙されていて、みきが気を配った当時の人々の願いの様子が知られる。

人生の終盤は、明治政府による監視の下、官憲による取り締まりとの闘いが多くを占めている。興味深いのは、取り締まりやみき自身を含めた留置・拘留が続くなか、公的な許可を得たり、教会を立てることに、「律が恐いか、神が恐いか」と、みきがずっと反対していることだ。つまり、許可を受けることよりも、たとえ弾圧を受けても「つとめ」を修することに集中せよと主張している。また、孫である初代真柱の眞之亮の話もあまり出てこない。眞之亮が神道本局の許可を取りつけるのは、1888年(明治21)、みき逝去翌年のことである。この辺の事情には、信者の方々の葛藤があるのだろうなと推測する。

奈良で浄土信仰といえば、當麻寺の中将姫がいる。みきの人助けのはじまりは、「をびや許し」すなわちお産の助け。かつて浄土宗に心を寄せたみきの宗教には、女性の助けという性格もあったのかもしれないなどとも空想する。また、天理王命による「守護」について、「自由自在(じゅうようじざい)」という形容が多用される。逆に当時の人々が、生活面でも健康面でも、自由自在にほど遠かったことを、これまた空想する。

なおこの伝記は、天理教研究所のサイトからもその全文を読むことができる。

[J0511/240916]