Month: January 2023

サルトル『存在と無』(1)緒論

松浪信三郎訳、人文書院、1951年。原著は1943年。長らくこの版がスタンダードだったけど、2007年にちくま文庫版が出ていたね、そういえば。3巻通読するのにいつまでかかるか分からないが、とりあえず緒論でノートを。

緒論 存在の探究
I 現象という観念
II 存在現象と現象の存在
III 反省以前的なコギトと知覚の存在
IV 知覚されることの存在
V 存在論的証明
VI 即自存在

なるほど、一世を風靡した理由も分かるような気がする。一般論として言えばそりゃ難解ということになるのだろうが、フッサールやハイデッガーとはちがったポップさがある。レイモン・アロンが「現象学者だったら、このカクテルについて語れるんだよ」と述べてサルトルを感動させたというエピソードを思い出したが、この言葉は、現象学一般にというより、ほかならぬサルトルの哲学にこそふさわしい、なんていう第一印象。

サルトルはまず、カント流の、現象と真なる存在(正確にはたんに存在)との二元論を否定し、あらゆる「背後世界」の想定を斥ける。ただし、存在は本質でもない。本質は対象が有する諸々の性質のひとつであり、対象の「意味」であるが、存在はそうしたものではない。本質は現象の一部だが、存在は現象ではない、と言ってもいいだろう(ただし、厳密さを求めるなら、サルトルにおける現象という用語の意味についてはさらに要精査)。

ハイデガー流のしかたと同様に(おそらくはそれに倣って)、サルトルの理解にあっても、人間意識こそが存在の成立に重要な役割を果たしている。それはある種の循環的構造をもっていて、「意識しているあらゆる存在は、存在することの意識として存在する」と言われる(I: 29)。しかし、ハイデガーと袂を分かつのは、無と人間意識との関係に関する理解についてである。「意識は無に先だつものであり、存在から〈自己をひきだす〉」(34)。

存在が、人間意識との関係のうちに成立基盤を有している(すくなくとも緒論までの行論において)として、現象の存在は「知覚されること」のうちに「宿る」のであり、したがって存在とは相対性と受動性という特徴を有している。受動性については説明不要だとして、相対性とは「知覚する者の存在と相対的」ということであり、このことには、対象となっている存在が、知覚する者の存在に還元されないということも含意されている。すなわち、存在は人間意識と「相対的」ではあるが、人間意識に還元されるものではなく、この意味にかぎっていえば、自体的に――「即自的に」――存在してもいるのである。だから、現象の存在は、単純に「知覚されること」と同一なのではない。ここでサルトルは、意識/現象の継起のなかに存在を還元できたと認める種類の現象学を批判する。現象学的還元によって説明できるものは、存在のしかたであって、存在ではない。逆に、人間意識の側についても、それはつねに何ものかについての意識であると言われる。つまり、意識はつねに、それとは別の存在を「巻き添えにする」。

ここまでくれば、次の定式の意味もだいたい理解できるだろう。「意識とは、それの存在が本質を立てるような一つの存在であり、また逆に、意識は本質が存在を含むような一つの存在についての、すなわちその現れが存在を要求するような一つの存在について、意識である」(47)。

このようなサルトルの存在理解は、意識の存在と現象の存在というふたつの問題圏をもたらすことになる。

以上、緒論のメモだが、すでに、サルトル哲学の基本的洞察はこのなかに提示されているように思われる。まだ残り、読んではないけど・・・・・・。

[J0332/230131]

加藤尚武『死を迎える心構え』

PHP研究所、2016年。

[内容]
死なない生物と死ぬ生物
ほんとうに私は一人しかいないか
現代哲学としての仏教―どうしたら本当に死ねるか
鬼神論と現代
霊魂の離在、アリストテレスからベルクソンまで
私をだましてください
他人の死と自分の死
人生は長すぎるか、短すぎるか
世俗的来世の展望
どこから死が始まるか
人生の終わりの日々
胃瘻についての決断
往生伝と妙好人伝
宗教と芸術
人生の意味のまとめ

日本を代表するヘーゲル研究者であり、精彩に富んだ文章でヘーゲル哲学を表現してきた著者。しかし、その著者をもってしても、死という主題を前にはこんな感じの、厳しく言えば、よくある感じの本になってしまうのね。死にまつわる古今東西の本を渉猟していくというスタイルだが、加藤さんには加藤さんご自身の、死の思想をもっと綿密に示してほしかった。本書の結論部分は「「どうして死ぬのですか。」「それが自然だから。」――それ以上の答えはない」(236)という具合で、これではちょっと。以下、部分的に気になった箇所について。

「死が美となるという思想は、中国にもインドにもないように思われる。「美しい死」という思想は日本的である」(90)。そういえば、こういう言い方も成り立つだろうか? もし成り立つとすれば、かなり重要。

「父母の思い出は子どもにとっては一生涯つづく「お守り」のようなものである」(102)。うまいこと言う、という言い回しとして。

「お金について選択の自由が成り立つのは、お金の有無で私の状態が変わらない、同じ私であり続けることができるからである。・・・・・・しかし、命や手足や目やこころの場合、それを持つときと失った後とで、同じ人格が存在し続けるとは言えない」(168)。ふむ。

「詩とは、瞬間を永遠とする魔術である。詩があれば、永遠を宗教から借りてくる必要がなくなる」(223)。ふむふむ。

「若い時に甲子園の野球に出場して負けたという人に、「負けたんだから、出場しない方が良かったですね」と言ったら、「負けたけれど出場して良かった」と答えるだろう」(226)。なるほど、この言い回しは今後、使わせてもらいたい。

[J0331/230130]

宮崎学・小原真史『森の探偵』

新装版、亜紀書房、2021年、原著は2017年。

第1章 動物たちの痕跡
 けもの道の見つけ方
 フクロウの棲む谷
 動物たちの住宅事情
第2章 生と死のエコロジー
 自然界のサプリメント
 スカベンジャーたち
 死の終わり
第3章 文明の力、自然の力
 被災地の動物たち
 外来種と在来種
第4章 人間の傍で
 シナントロープたちの事件簿
 人間の同伴者
終章 森と動物と日本人

本書を読むと、宮崎さんの仕事がまさに自然界の報道写真家だということがよく分かる。つまり、たんに人間社会/自然界という二分法を前提してどちらかを理想化したり破壊を嘆いたりするのではなく、そんな境界線を意識せずに自らの世界として生きる動物たちの現実生活をひたすら見つめる。これこそ、エコロジーすなわち生態学。サナトロジーでもある。とにかく濃い一冊。聞き役の小原さんはときおりカルチュラル・スタディーズの視点をはさんできたりして、宮崎さんとは志向はちがっているようにみえるが、出すぎてもおらずほどよいアクセントになっている。

少し似たテーマの本では、チャールズ・フォスター『動物になって生きてみた』が話題にもなって、そちらもたしかにおもしろかったが、この宮崎本の方が圧倒的に示唆に富んでいる。そうそう、フォスター本とはちがうこの本の凄さのひとつは、食べる食べられる関係の豊かさを示しているところ。たとえばシカの死体に次々と段階的にちがった動物が集まる話であったり、そうした食べる食べられる関係があちこちで、ひとつの世界を形づくっていることを、この上なく具体的に示しているところ。本書冒頭に少し出てきた、自動で撮るのは写真家といえるのかなどと宮崎さんに向けられてきたという横やりなど、簡単にぶっとんでしまう。

なお、立花隆『青春漂流』(1985年)は、34歳の頃の宮崎さんを取材している。

[J0330/230129]