講談社学術文庫、1997年。1993年の放送大学教材『倫理学の基礎』の改訂版だそう。

今回、いま関心のある「11 他人に迷惑をかけなければ何をしてもよいか」という章だけに目を通したが、この章は「本書の中心」なのだそうだ(8)。

「私が判断して、現代の倫理にもっとも近い古典は、J. S. ミルの『自由論』(1859年)である。・・・・・・〔『功利主義』という相補的な著作もあるが〕私はことさらに『自由論』こそ、現在の基軸的な著作であると主張したい」(5)。

1 人を助けるために嘘をつくことは許されるか
2 10人の命を救うために1人の人を殺すことは許されるか
3 10人のエイズ患者に対して特効薬が1人分しかない時、誰に渡すか
4 エゴイズムに基づく行為はすべて道徳に反するか
5 どうすれば幸福の計算ができるか
6 判断能力の判断は誰がするか
7 〈……である〉から〈……べきである〉を導き出すことはできないか
8 正義の原理は純粋な形式で決まるのか、共同の利益で決まるのか
9 思いやりだけで道徳の原則ができるか
10 正直者が損をすることはどうしたら防げるか
11 他人に迷惑をかけなければ何をしてもよいか
12 貧しい人を助けるのは豊かな人の義務であるか
13 現在の人間には未来の人間に対する義務があるか
14 正義は時代によって変わるか
15 科学の発達に限界を定めることができるか

「自由主義の原則は、要約すると、「①判断能力のある大人なら、②自分の生命、身体、財産にかんして、③他人に危害を及ぼさない限り、④たとえその決定が当人にとって不利益なことでも、③自己決定の権限をもつ」となる。ところが、この五つの条件すべてに難問がからんでいる。何を自由にしてよいかについて、大枠の合意が必要である」(167)。

「自由主義の原理の中心部分」であるとされる、第三の、他者危害の原則条項について。著者はまず、「他者への危害と他者への迷惑とは、はっきり区別されなければならない」(174)とする。「人間の悪事には三種類ある。他者への危害、他者への迷惑、自己への危害である。このなかで刑罰の対象になるのは、他者への危害だけである。他者への迷惑と自己の危害に対して応酬できるのは、ただ、白眼視したり仲間はずれにしたりすることだけである」(176)。

「ここでは行為が、無限の空間の中のアトムとして考えられている。だから他者に関わる行為と他者に関わらない行為は、実際上は区別がしにくい場合があったとしても、建て前として区別できるものとして考えられている。
「私がタバコを吸えば、周りの人間すべてが無関係ではいられない。私がダイヤモンドを掘り出せば他者に残されるのは残りのダイヤモンドであって、私が他者になにも働きかけなかったとしても、私の行為は他者と関わっている。これは私の行為が図柄で、外部の世界はその地柄となる関係である。私の行為や私の存在とそれを切り抜きだした残りの空間とは、ゼロ・サム関係と同じで、一方が決まれば他方も決まる、完全に相互規定的な関係にある。そして私にとっての他者は、私と相互規定的な地柄の中にいる。
「私と他者は、共同の中立的な空間の中のアトムではない。どちらにとっても同じ意味をもつ空間は存在しない。私がタバコの煙で汚染した空気とそれを吸う他者との関係は、加害側と被害側の関係である。環境という関係規定は、私に無関係な他者の存在を認めない。」(176)

「他者危害の原則は、厳密には存在しないアトム・モデルに依存している。だから、他者危害の原則に従って自由に認められる行為は、厳密に言えばありえない。それなのに人格と行為のアトミズムという想定によって、自由主義の原則が組み立てられ、そのもとで「自由な行為」が存在を認められている」(177)。

「自由という観念の中心には「何をしてもいい」という不確定さがある。「汝の欲するところを行え」という格率の中には、すべての呑み尽くす深淵のようなものがある。自由には、悪の許容と言う要素がある。他人に危害や迷惑をかけないなら何をしてもいいというのが、自由主義の中心にある考え方である。ここには積極的に何をすべきかと言うことに、一言も触れまいとする覚悟がある」(187)。

マッキンタイヤー『美徳なき時代』における自由主義批判に触れて、「すなわち、自由には文化の質を向上させる要因があると信じたミルの啓蒙主義は、大いなる誤算だったと言っている。むしろ、「他人に迷惑をかけなければ何をしてもいい」という自由の空しさ(否定性)は、文化を退廃と混迷へと導いている。マッキンタイヤーのこの主張は正しい。ミルの期待に反して、自由主義と理想主義はひとつに重なり合わなかった。愚行権を認めることが、人生をひとつの愚行に終わらせる危険をはらむことが、見えてきている」(188)。

しかし、「自由主義を実際に運用するときのさまざまな問題点を、共同体主義者が解決したとは言えない。われわれは、場合によっては、さまざまな欠点をさらけ出す自由主義を、なんとか使いこなしていかなくてはならない」(188)。

[J0535/241113]