Month: July 2024

定方晟『須弥山と極楽』

副題「仏教の宇宙観」、ちくま学芸文庫、2023年、原本は講談社現代新書で1973年刊。

1章 人間は宇宙をどう把えたか
2章 仏教の“地獄と天界”
3章 極大の世界と極微の世界
4章 仏教宇宙観の底を流れるもの
5章 西方浄土の思想
6章 地獄はどう伝えられたか
7章 仏教の宇宙観と現代

解説の佐々木閑氏の整理では、本書は次のような四部構成になっている。(1)アビダルマ仏教『倶舎論』の仏教的宇宙観の紹介、(2)浄土信仰の土台である極楽の考察、(3)地獄の考察、(4)著者の仏教論。佐々木氏いわく「第一部は驚異的に面白い。第二部は見晴らしの良さに心が躍る。第三部は緻密な考察に感心する。そして第四部では定方晟という学者の心意気が分かる」(218)。

本書を読めば、仏教を理解するには、当然のことながら、日本を離れてインドの思想や宗教風土を踏まえる必要があるということ、さらにそのインドの仏教や宗教も、中東や地中海世界の影響のなかにあったことを教えられる。

「インドとギリシアで、ほぼ同時代に輪廻の思想が流行しだしたという事実は、われわれに驚きと迷いを感じさせる。二つの輪廻の思想のあいだに、借用関係はないのだろうか。ギリシア方の伝説に、かつてディオニュソスがインド遠征に赴いたという話がある。・・・・・・ここで注意しておきたいことは、ギリシアにおいて輪廻するのは、実体としての霊魂であるが、仏教においてはそのような霊魂の存在が否定されているということである」(137-138)

『倶舎論』では地獄は説かれているが、極楽は不在である。極楽の観念は、後年展開してきたものである。著者は、浄土思想史の中にも、キリスト教の影響があったことを想像している。諸説がある中で、岩本裕氏などは、「極楽(スカーヴァティー)」とはユダヤ教の「エデンの園」に由来すると説いているらしい。これに対して著者は、「私はこの「エデンの園」極楽起原説に対して、エジプトの「アメンテ」思想とギリシアの「エーリュシオン」の思想が、「極楽」の思想に結びつかないかと考えている」という(150)。極楽の描写に東西の共通性が見出されることのほか、クシャーナ王朝にギリシャ愛好者がいてギリシャ文化の影響が見られることがその根拠として挙げられている。

もともとバラモン教の神であったエンマ(yama)は、『倶舎論』では、須弥山の上空に居住していた。ここでも著者は、「エンマが地獄の主になっていったのは、仏教の地獄思想に審判の思想が入りこんできた結果、その論理的要請によるのではないか」と推測している(165)。そしておもしろい評、「仏教は小乗・大乗をとわず慈悲の精神でつらぬかれている。そこで仏教は外部から審判者の思想が入りこむとすぐ、この凄絶な思想を、慈悲の精神でやわらげようと動きだす。すなわち、審判者エンマは実は地蔵菩薩の化身であるということになった。エンマは本当に怒っているのではない。それはなんとしてでも衆生を救わんがためであり、方便なのである。衆生によっては、地獄の厳しさを教えることが、輪廻から脱する気持を促がすことになるかもしれないというのである」(181)。

著者はまた、「三途の川」のアイディアについても、ギリシアやイラン、中国の影響があったことを想定している。

[J0493/240731]

今枝愛真「安国寺・利生塔の設立」

『中世禅宗史の研究』(東京大学出版会、1970年)、77-138頁。本論文の内容は、『国史大事典』における同著者による記事(「安国寺」)に簡潔にまとめられている。

 夢窓疎石の勧めにより、足利尊氏・直義の兄弟は、平和を祈願し、元弘以来の戦死者の遺霊をとむらうために、暦応元年(一三三八)ころから貞和年間(一三四五―五〇)にかけて約十年ほどの間に、全国六十六ヵ国二島にそれぞれ一寺一塔を設け、各塔婆には朝廷から仏舎利二粒が納められた。ついで貞和元年(一三四五)二月六日、光厳上皇の院宣によって、寺は安国、塔は利生と名づけられた。このうち、利生塔は真言・天台などの旧仏教の大寺院に設ける方針であったらしいが、各国の特殊な事情により、山城・相模・駿河など五山派の禅寺に設けられた場合もあった。現在遺構の残っているものは一つもないが、京都八坂の法観寺五重塔のほか二十八ヵ国の利生塔の所在が認められる。その形体は五重塔が多かったが、三重塔の場合もあったようである。これに対して、安国寺はすべて各国守護の菩提所である五山派の有力禅院が指定された。・・・・・・

 このような寺塔の設置は、その土地領有の標章ともなるものであるから、その存在はその地方が室町政権の統治下にあることを示しており、したがって、各国守護を通じての勢力範囲の維持にも役立てられ、同時に幕府および守護にとって、軍隊の屯営、前進拠点、あるいは軍略上の要衝という一面も持っていた。さらに、南朝の残存勢力をも含めた反幕勢力を監視抑制するという目的もあったであろう。このように、安国寺・利生塔の設置は、民心の慰撫と平和の祈願という本来の宗教上の目的のほかに、各国守護の連合に依存していた室町初期政権が、各国守護を掌握し、治安維持の強化を図るために、各国守護の菩提寺などに寺塔を設置し、幕府の威信を宣揚するとともに、守護統制にも役立たせ、幕府権力を組織的に扶植し、幕府の支配体制をいっそう円滑にしようという政治的意図があったことが知られる。
 しかし、推進者である直義の失脚、ついで尊氏の死去に伴って、寺塔設立の目的も忘れられ、守護層の変動や五山派の発展によって、三代将軍義満のころにはほとんど名目だけのものとなり、幕府が積極的に整備をすすめていた十刹や諸山などの五山の官寺機構のなかに組みかえられていった。

安国寺・利生塔については辻善之助の説が定説化していたが、本論文はそれを大幅に見直すものである。

各地の利生塔に納められた68粒の仏舎利は、東寺から奉納されている。利生塔は旧仏教勢力の懐柔を、安国寺は従来から存在していた禅刹(禅宗五山派)を安国寺として認定しなおすことで各国の守護勢力(武家)の掌握を狙っていたとのことで、本論文では、安国寺・利生塔とも、その設立について死者供養の意図以上に政治的目的によるという側面が強調されている。

上の記事にあるように、夢窓疎石の死去や足利直義(ただよし)の失脚によって、幕府の政策としての安国寺・利生塔は意義を失っていき、義満による五山・十刹・諸山という中央集権的官寺制度の充実整備政策に取ってかわられていったという。

なお、この論文は四半世紀以上前のものだが、その後の研究動向についてはまた今度、気が向いたときに調べてみるということで。

[J0492/240730]

山本正嘉『登山と身体の科学』

副題「運動生理学から見た合理的な登山術」、講談社ブルーバックス、2024年。かなり実用的なガイドブック。個人的にはもっと科学的に深掘りしたものが読みたかったが、それは目的がちがうということで。著者は登山のコース定数をつくった人とのこと。

第1章 登山とはどのような運動か
第2章 山での疲れにくい歩き方
第3章 山での栄養補給の方法
第4章 環境の影響から身体を守る
第5章 山で起こる身体のトラブルを防ぐ
第6章 体力トレーニングの考え方と方法
第7章 登山計画の立案と身体面の準備
第8章 安全登山の仕組みづくりとセルフチェック

最高心拍数の推定式は、「220-年齢」あるいは「208-(0.7×年齢)」。乳酸閾値は最高心拍数の75%くらいとのこと。最高心拍数が175ならば、130ほど。このペースを超えないように歩く、と。

傾斜が中程度(20%以上)の坂道を上るときの運動強度は、水平方向ではなく、垂直方向にどれくらいの速さで上っているかという登高速度で決まる。装備が体重の10%以下の軽装の場合、登高速度 300m/hでハイキング程度、400m/h でジョギング程度、500m/h でランニング程度の運動強度があるそうな。上りはゆっくりが原則と。

行動中のエネルギーと水分の消費量。エネルギー消費量(kcal)=体重(kg)×行動時間(h)×5。脱水量(ml)=体重(kg)×行動時間(h)×5。夏の場合、脱水量の係数は6~8程度になるらしい。5時間の登山の場合、65㎏×5h×5=1.6㎏、夏場であれば 65㎏×5h×8=2.6㎏。一時間当たり 320ml~520ml程度。

本書に書いていないが、どうも必要な吸水量は、脱水量×0.7~0.8らしい。食事からも摂れるということ? よく分からないが、一時間当たり 320ml~520mlという数字に 0.7~0.8 をかけると、224~412ml。ほぼ二倍の幅になってしまったが、500ml ペットボトルで一時間から二時間保つと。

[J0491/240730]