副題「中海における肥料藻と採集用具」、鳥取県史ブックレット9、鳥取県江文書館県史編さん室編、鳥取県発行、2011年。『江戸時代の鳥取と朝鮮』もそうだったが、この冊子もレベル高いなあ。
かつて「飲みたくなるほど透き通っていた」という中海は、弓浜半島の人びとにとって「里海」であった。とくに藻の採集を中心に、その「里海」の利用方法を探り紹介した一冊。自然科学的な見地をとりいれながら生活民俗が解説されているところも楽しい。
はじめに―民具からみる地域の暮らし―
1 鳥取県における里海:里海という視点/弓浜半島の特殊な環境
2 里海に注目した経緯:伯州綿とその栽培用具/日吉津村の綿栽培用具/綿まき鍬/伯耆地方にない「穴つき」/里海が支えた綿栽培
3 里海と地域の暮らし:米子市彦名町の事例/藻葉採りと入会権/舟入とフナミチホリ/舟入と龍宮さん/中海での漁業/藻葉の採集地
4 藻葉の種類と利用:総称としての藻葉/オゴノリ/ボウアオノリ/ウミトラノオ/アマモ/コアマモ/季節と藻葉/藻葉利用における塩害対策
5 藻葉採集用具:藻葉採りとその用具/藻葉ケタ/ケタによるアマモの採集法/ケタによるオゴノリの採集法/サオ(ネジリザオ・ハサンバ)/サオの使用方法/カギ/カイノコトリ/モバトリグワ/カマ/舟
6 藻葉採りの終焉と復活:藻葉の減少/農業・生活形態の変化と藻葉/中海干拓事業の経緯/里海再生と再利用
おわりに―暮らしの物的証拠としての民具―
藻を肥料にすること。弓浜半島は、1759年に完成した米川用水の整備以降、有数の綿作地帯となる。その競争力を支えたのは、油粕や干鰯よりもずっと安価であった藻葉(もば)で、多くは隠岐産のものであるが、中海でも藻葉を採集することができた。
弓浜半島は湾口砂州であり、島根県側の大根島も山野がほとんどないため、山林原野から肥料を採ることができないかわりに、中海の藻葉の採集が入会権となっていた。
中海の漁業としては、戦中・終戦直後はサヨリの延縄漁が盛んであったという。そのほか、特産のアオデ(タイワンガザミ)を籠漁で、エビ(ヨシエエビ)を漬漁で獲ったり、とくに大根島では、赤貝をソリコ舟でケタ(引網)を使って獲っていたという。
内水面は、また陸とは異なる地理感覚だなあとおもうのは、中海の藻葉だけで足りないときは、弓浜半島・彦名から中海、大橋川、宍道湖、佐陀川を経由して島根半島に出て、泊まりがけで手結や御津あたりでホンダワラなどを採ったという。採集権関係はどうなっていたか。
採った藻葉の利用について、大根島や安来では塩害を気にして塩抜きをしたりするが、弓浜半島ではあまり気にしていなかったという。砂地だからではないかと、著者は推測している。
米子市彦名では1958年頃には藻葉採りを止め、大根島入江地区では1962年以降、オゴソウ(オゴノリ)が採れなくなったという。1963年に開始された中海干拓事業よりも前から水質悪化が相当進んでいたらしく、それが反対の声を弱める理由にもなったらしい(干拓事業はその後中止)。
化学肥料の普及により、労力のかかる藻葉利用は激減。弓浜半島では綿作自体が激減していたし、やはり藻葉をよく利用した養蚕のための桑畑も減少。桑畑はタバコ畑に変わったが、タバコは塩分に弱いため、藻葉を用いなかったという。
中海干拓事業が2005年に中止されて、いくつかの水門が撤去されると、アサリが増えるなどの効果が出た。ところが、水質悪化で激減していたオゴノリが増えたのはよいのだが、それが過剰に繁殖して堆積、ヘドロ化して水質悪化の原因に。今度はこれを肥料にできないかと、温故知新の取り組みがこの2011年当時、はじめられているとのことである。
[J0557/250130]