Month: January 2025

樫村賢二『里海と弓浜半島の暮らし』

副題「中海における肥料藻と採集用具」、鳥取県史ブックレット9、鳥取県江文書館県史編さん室編、鳥取県発行、2011年。『江戸時代の鳥取と朝鮮』もそうだったが、この冊子もレベル高いなあ。

かつて「飲みたくなるほど透き通っていた」という中海は、弓浜半島の人びとにとって「里海」であった。とくに藻の採集を中心に、その「里海」の利用方法を探り紹介した一冊。自然科学的な見地をとりいれながら生活民俗が解説されているところも楽しい。

はじめに―民具からみる地域の暮らし―
1 鳥取県における里海:里海という視点/弓浜半島の特殊な環境
2 里海に注目した経緯:伯州綿とその栽培用具/日吉津村の綿栽培用具/綿まき鍬/伯耆地方にない「穴つき」/里海が支えた綿栽培
3 里海と地域の暮らし:米子市彦名町の事例/藻葉採りと入会権/舟入とフナミチホリ/舟入と龍宮さん/中海での漁業/藻葉の採集地
4 藻葉の種類と利用:総称としての藻葉/オゴノリ/ボウアオノリ/ウミトラノオ/アマモ/コアマモ/季節と藻葉/藻葉利用における塩害対策
5 藻葉採集用具:藻葉採りとその用具/藻葉ケタ/ケタによるアマモの採集法/ケタによるオゴノリの採集法/サオ(ネジリザオ・ハサンバ)/サオの使用方法/カギ/カイノコトリ/モバトリグワ/カマ/舟
6 藻葉採りの終焉と復活:藻葉の減少/農業・生活形態の変化と藻葉/中海干拓事業の経緯/里海再生と再利用
おわりに―暮らしの物的証拠としての民具―

藻を肥料にすること。弓浜半島は、1759年に完成した米川用水の整備以降、有数の綿作地帯となる。その競争力を支えたのは、油粕や干鰯よりもずっと安価であった藻葉(もば)で、多くは隠岐産のものであるが、中海でも藻葉を採集することができた。

弓浜半島は湾口砂州であり、島根県側の大根島も山野がほとんどないため、山林原野から肥料を採ることができないかわりに、中海の藻葉の採集が入会権となっていた。

中海の漁業としては、戦中・終戦直後はサヨリの延縄漁が盛んであったという。そのほか、特産のアオデ(タイワンガザミ)を籠漁で、エビ(ヨシエエビ)を漬漁で獲ったり、とくに大根島では、赤貝をソリコ舟でケタ(引網)を使って獲っていたという。

内水面は、また陸とは異なる地理感覚だなあとおもうのは、中海の藻葉だけで足りないときは、弓浜半島・彦名から中海、大橋川、宍道湖、佐陀川を経由して島根半島に出て、泊まりがけで手結や御津あたりでホンダワラなどを採ったという。採集権関係はどうなっていたか。

採った藻葉の利用について、大根島や安来では塩害を気にして塩抜きをしたりするが、弓浜半島ではあまり気にしていなかったという。砂地だからではないかと、著者は推測している。

米子市彦名では1958年頃には藻葉採りを止め、大根島入江地区では1962年以降、オゴソウ(オゴノリ)が採れなくなったという。1963年に開始された中海干拓事業よりも前から水質悪化が相当進んでいたらしく、それが反対の声を弱める理由にもなったらしい(干拓事業はその後中止)。

化学肥料の普及により、労力のかかる藻葉利用は激減。弓浜半島では綿作自体が激減していたし、やはり藻葉をよく利用した養蚕のための桑畑も減少。桑畑はタバコ畑に変わったが、タバコは塩分に弱いため、藻葉を用いなかったという。

中海干拓事業が2005年に中止されて、いくつかの水門が撤去されると、アサリが増えるなどの効果が出た。ところが、水質悪化で激減していたオゴノリが増えたのはよいのだが、それが過剰に繁殖して堆積、ヘドロ化して水質悪化の原因に。今度はこれを肥料にできないかと、温故知新の取り組みがこの2011年当時、はじめられているとのことである。

[J0557/250130]

三宅紹宣「幕末期長州藩の宗教政策」

副題「長州藩天保改革における「淫祠」解除政策について」、河合正治編『瀬戸内海地域の宗教と文化』雄山閣、1976年、225~258頁。

はじめに
1 「淫祠」解除政策の展開
2 「淫祠」解除政策の歴史的諸前提
3 「淫祠」解除政策の歴史的意義

長州藩では、天保改革の一環として、藩主毛利敬親のもと、村田清風の「淫祠之詮議」プランの提出を皮切りに、1838年(天保9)より「淫祠」解除政策が実施された。解除とは、(おそらく三宅の表現で)廃するということである。

「「淫祠」解除政策は、藩の御根帳に登録されていない寺社堂庵、小祠・小庵・石体・金仏=「支配体制秩序外信仰」対象を解除し、一方で、御根帳入寺社堂庵=「支配体制秩序内信仰」対象を再編成し、そのことによって、民衆の宗教活動を統制し、藩の支配体制秩序の強化を意図するものであった。その具体的展開は、藩の寺社所によって行なわれ、村落においては、村役人層が解除の実務を担当した。「淫祠」解除政策に対して、民衆はその政策を容易に受入れず、存続嘆願を行ない、あるいは不穏な状況を現出せしめて、政策進捗を遅延させた。そして、「淫祠」解除後も不穏な状況を現出せしめて藩側に一定の譲歩を強い、あるいは統制の網の目をくぐって「淫祠」再建を行なった。」(252)

1843年(天保14)7月の中間報告では、「御根帳入寺社堂庵」は3376で、「詮議半途社堂庵」が802、「解除済寺社堂庵」が9194、「詮議半途石体金仏」が9169となっている。これを単純計算すれば、13372カ所あった寺社堂庵のうち、69%がこの5年間で廃されたことになる。翌1844年(弘化元)1月になると、「解除済寺社堂庵」は9666、「解除済石体金仏」は12510となっている。

帳簿「御根帳」に記載されていない「淫祠」の存続を人びとが強く申し出た場合、帳簿に記載されていて信仰が薄れている寺社から「引寺」・「引寺」をして名義を移すことで許可をする場合もあったとのこと。こうして、藩は人心と妥協をしつつ、帳簿を介した管理をすることができたと。こうした藩の統制は、基本的に、明治維新まで続く。

「天保期における長州藩民衆は、天保二年一揆にみられるごとく、藩体制を動揺させていた。その場合、呪術信仰の問題は、民衆が一揆に蜂起する過程において、また一方で、藩あるいは村役人層が一揆を鎮静させる過程において重要な機能を果たした。したがって、藩は、一揆において打毀を受けたという性格を持つ村役人層との共生関係において宗教統制を行なわなければならない課題に直面していた。」(252)

「皮騒動」にみられるように、呪術信仰が一揆のきっかけともなった。おもしろいのは、「一揆を鎮静させるのに殿様祭の執行ということが、一定の役割を果たしていることが注目される」という指摘(250)。「藩側の一定の妥協によって要求が受理され(要求の受理は一時的なものであり、後にそのほとんどが反古にされるが)、あるいは御恵米が下付されて、それを感謝した民衆によって殿様祭り〔*ママ〕が行なわれ、一揆が鎮静してしまうのである。この殿様祭は、日常的年中行事の中で行なわれる場合においては、村役人層の主導において行なわれるものであるから、以上、殿様祭の挙行も村役人層の工作において行なわれたものと推定される」(250-251)

「淫祠」解除の話もおもしろいが、この殿様祭の話もおもしろい。信仰をもって信仰を制するというか。日本における政治責任追及の一パターンとして、天皇制と戦争責任の話にも通じるところがありそうだ。

国立国会図書館デジタルコレクション
>河合正治編『瀬戸内海地域の宗教と文化』雄山閣、1976年.https://dl.ndl.go.jp/pid/12286693/1/116
>〔関連資料〕沖本常吉編『幕末淫祀論叢』マツノ書店、1978年.https://dl.ndl.go.jp/pid/12261045
[J0556/250126]

『江戸時代の鳥取と朝鮮』

鳥取県立公文書館県史編さん室編、鳥取県史ブックレット5、鳥取県発行、2010年。実質的な著者は、編さん室の坂本敬司という方の模様。

1 朝鮮に出自を持つ鳥取町人
  「鎖国」以前の日本/海老屋の松/竹野屋が松/柳御蔵の柳
2 米子の大谷・村川家の竹島(欝陵島)渡海
  従来の通説/「竹島渡海免許」の年代/「竹島渡海免許」の背景/鳥取藩の保護と支援/松島(竹島)への渡海
3 竹島(欝陵島)渡海と朝鮮への漂着
  竹島(欝陵島)渡海の実態/2つの漂流/竹島(欝陵島)に渡った人々/鳥取藩領から朝鮮への漂着
4 元禄竹島一件(1)1693年
  元禄竹島一件とは/1692(元禄5)年の渡海/1693(元禄6)年の渡海/安龍福と朴於屯/幕府と対馬藩の対応/竹島(欝陵島)渡海禁止の決定
5 元禄竹島一件(2)1696年
  安龍福二度目の来日/鳥取での安龍福/鳥取藩の対応の理由/安龍福の来航目的/帰国後の安龍福/「元禄竹島一件」と竹島問題
6 鳥取藩と朝鮮通信使
  江戸日本の誠信外交/鳥取藩の道中人馬役/1764(明和元)年の人馬役/使者小川利兵衛の苦労/朝鮮国王へ贈る刀を打った鳥取の刀工/通信使を見た百姓・町人
7 朝鮮からの漂流民(1)1767年、汗入郡上万村
   鳥取藩領への漂流・漂着/上万村への漂着/4人は慶尚道長鬐出身の漁民/上万村での漂流民/対馬藩からの情報と幕府への届け出/漂流民、鳥取城下へ/漂流民、長崎へ
8 朝鮮からの漂流民(2)1819年、八橋郡赤崎沖
  友好交流の象徴/12人の漂流民/漂着から帰国までの経緯/交流を示すもの
9 朝鮮からの漂流民(3)1838年、岩井郡網代村
  慶尚道蔚山の船、網代に漂着/その後の漂流民/網代村善四郎/1862(文久2)年河村郡宇谷村へ漂着した異国船

現在、竹島は島根県の問題とされているけれど、よく引きあいに出される江戸時代の「元禄竹島一件」(こちらは鬱陵島の話)は、鳥取藩での話なのだよね。その様子が歴史学の立場から平易に書かれていて、とても参考になる一冊。その後の経緯は別問題として、「元禄竹島一件」に関して言えば、次のまとめに尽きる。

「「元禄竹島一件」は竹島(鬱陵島)をめぐる問題であり、現在竹島問題の対象となっている松島(竹島)について、日本と朝鮮の間で協議された形跡は見られない。また、前近代には、明確に線引きされた現在のような国境の概念はなかったと思われ、近代以降の国境概念で前近代を推し量るのは、誤った理解を招く恐れがある。「元禄竹島一件」を安易に竹島問題と絡めて議論するのは慎重でなければならない。」(47-48)

現在、竹島問題の「当事者」は島根県とされているから、鳥取県の側であまり先走ったことは言えないという配慮はあるかもしれない。しかし、安易なナショナリズムに走ることなく歴史研究の知見を尊重したこのような冊子を、鳥取県として公的に発行していることには価値がある。

[J0555/250125]