Month: December 2024

高取正男『宗教民俗学』

法蔵館文庫、2023年。

■「幻想としての宗教」
 禁制キリシタンやかくれ念仏に言及。

■「遁世・漂泊者―本源的二重構造の問題―」
 水稲耕作の定住社会は自律していたのではなく、その存続に、非定住漂泊民の存在を必要としていたのでは。

■「宗教と社会―信仰の日本的特性―」
 堀一郎の説をひいて、「日本では神道がその原初形態をととのえたとき、すでそれは政治的価値の優越をみとめるような世俗的宗教 secular religion の性格をつよくもっていたと推定されている。したがって、日本では近世ヨーロッパのキリスト教社会でいわれる宗教の世俗化 secularization の過程は存在しない」(54-55)。
■「村を訪れる人と神―日本人の信仰―」
 いわゆる他所者の意味、村と外部との接触、村を訪れる者の性格、人神の信仰、遊幸神の成立、遊幸信仰の展開。

■「山と稲と家の三位一体―日本民族信仰の根幹―」
 
■「死生の忌みと念仏―専修念仏と民間信仰―」

■「地蔵菩薩と民俗信仰」

■「信仰の風土―天川弁才天―」
 静御前の長さ八尺の髪の毛を宝物としていたという、吉野天川坪内の弁財天。髪の毛の霊力、修験、弁財天の由来。

■「奈良仏教の展開」
 『日本仏教史』に寄せられた、かなりがっちりした時代史。

■「天皇と神の間―古代的政教分離をめぐって―」
 律令制とは、古い神権政治の拒否であった。「おなじ古代でも、神々と天皇の間は律令以前と以後で、大きく違っていたといわねばならない」(329)。

■「救世主としての教祖―行基の場合を中心に―」

■「民間仏教を開発した空也」

■「解説」(柴田實):ごく短い文章。

■「文庫版解説――「楽園」の光と影」(村上紀夫)
 高取正男の父親、才助が経営者として成功者であった点に注目。高取とマルクス主義との関係について記す。

[J0550/241227]

川島秀一『いのちの海と暮らす』

副題「日本の沿岸漁業民俗誌」、冨山房インターナショナル、2022年。
スズキ、メバル、タラ、カツオ、サメ、カレイ、汽水域のシロウオ、それにクジラやイルカ、トドやオットセイなどの漁の世界を、漁師の視線に寄り添いながら詳らかに描く。そこには、サラリーマンのものとはもちろん、農業のそれともまったくちがった論理がある。

第一章 漁師が語る海
 1 スズキ釣りは辛抱釣り
 2 海の花咲かせるメバル釣り
第二章 漁師が書く海
 1 飛島の「山帳」における書承
 2 村上清太郎翁の漁業記録
第三章 汽水域と沿岸漁 
 1  湾史における汽水域
 2 シロウオ漁の生活誌
第四章 沿岸のクジラ捕り 
 1   沿岸小型捕鯨の民俗
 2 追尾士の捕鯨記録
 3 三陸沿岸の海獣漁
第五章 日本の沿岸広域漁業 
 1 追込み漁の自然観
 2 ケンケン漁の始まりと伝播

著者が迫ろうとする漁師たちの民俗は、前近代のそれには限らない。新しい技術や機械にも、民俗はあるとみている。新しい漁法が開発され伝播する――著者はこれも「伝承」と呼ぶべきだとする――しかたは、農村のそれとはやはりちがう種類のものだろう。範囲においても日本国内にもかぎられていないし、おそらくは速度についても、ずっとダイナミックな様相。

さまざまな「伝承」を経て開発されてきたカツオなどのケンケン漁について、「ケンケン漁などの曳き網漁は、小さな漁業であったからこそ、大きな社会の変化に対して生き残ってきた。さまざまな個人的な工夫で漁労技術を発達することができたのも、人間の工夫が目に見えて現れやすい小型の漁業であったからである。齢を重ねてもでき得る漁であり、これがあるために、個人や一家族の通年の収入を安定させてきた面もある。ことさらに海から生産力を上げなくても、目の前の海で生活できる幸せこそ守るべきものと思われる」(253)。

「おわりに」では、2018年の水産改革や、そこにおける数値目標の設定という管理方法に異を唱えている。漁師の生き方を見つめつづけ、いまは自分自身も漁師として福島に暮らす著者のことばは重い。

[J0549/241218]

ジル・ドゥルーズ「追伸」

副題「管理社会について」、宮林寛訳『記号と事件:1972-1990年の対話』河出文庫、2007年所収、356~366頁。訳本の定本は1992年。この論考自体は1990年発表。

〔規律社会〕
● 18~19世紀、20世紀初頭に頂点。第二次世界大戦後に壊滅。
● 監禁の環境を組織し、個人は閉じられた環境から閉じられた環境へと移行をくりかえす。家族、学校、兵舎、工場、ときどき病院や監獄。
● 「しかしフーコーは、規律社会のモデルが短命だということも、やはり知り尽くしていた」(357)。

〔管理社会〕
● もはや、あらゆる監禁の環境は危機に瀕している。「管理」とは、バロウズが提案した呼称。
● ゼロからやりなおす監禁環境の変移とは異なり、管理機構では変移は分離不可能。
● 工場には、企業が取ってかわる。「企業は、工場よりも深いところで個々人の給与を強制的に変動させ、滑稽きわまりない対抗や競合や討議を駆使する恒常的な準安定状態をつくるのだ」(359)。
● 「工場は個人を組織体にまとめあげ、それが群れにのみこまれた個々の成員を監視する雇用者にとっても、また抵抗者の群れを動員する労働組合にとっても、ともに有利にはたらいたのだった。ところが企業のほうは抑制のきかない敵対関係を導入することに余念がなく、敵対関係こそ健全な競争心だと主張するのである」(359-360)。
● 「じじつ、企業が工場にとってかわったように、生涯教育が学校にとってかわり、平常点が試験にとってかわろうとしているではないか。これこそ、学校を企業の手にゆだねるもっとも確実な手段なのである」(360)。
● 「規律社会では(学校から兵舎へ、兵舎から工場へと移るごとに)いつもゼロからやりなおさなければならなかったのにたいし、管理社会では何ひとつ終えることができない」(360)。
●「規律社会と管理社会の区別をもっとも的確にあらわしているのは、たぶん金銭だろう。規律というものは、本位数となる金を含んだ鋳造貨幣と関連づけられるのが常だったのにたいし、管理のほうは変動相場制を参照項としても、しかもその変動がさまざまな通貨の比率を数字のかたちで前面に出してくるのだ」(361)。
●「昔の君主制社会は、てことか滑車とか時計仕掛など、シンプルな機械をあやつっていた。ところが近代の規律社会はエネルギー論的機械を装備し、受動的な面からいうとそこにはエントロピーの危険があったし、能動的な面では怠業の危険をともなっていた。管理社会は第三の機械を駆使する。それは情報処理機器やコンピューターであり、その受動面での危険は混信、能動面での危険はハッキングとウイルスの侵入である」(362)。
● 「いまの資本主義が売ろうとしているのはサービスであり、買おうとしているのは株式なのだ。これはもはや生産をめざす資本主義ではなく、製品を、つまり販売や市場をめざす資本主義なのである」(363)。

[J0549/241214]