Month: September 2023

井上ひさし『父と暮せば』

新潮文庫、2001年。底本は1998年刊。井上ひさし本人によるあとがきの他、今村忠純の解説付き。

戯曲のシナリオで、数々の舞台上演のほか、2004年には、黒木和雄監督、宮沢りえ、原田芳雄、浅野忠信キャストで映画化されている。

広島の原爆で亡くなった父親の幽霊が現れて、生き延びた娘を勇気づけ支えるお話。東日本大震災でも多くの人が感じることになった、生存者の罪責感(サバイバーズ・ギルト)をよく描いている。東日本大震災は自然現象であるのに対し、原爆投下はアメリカの仕業だが、GHQの話がちらりと出るくらいでアメリカを直接責めるようなくだりはなく、主人公の美津江はひたすら自分を責める。

ただ、作品全体としてはあまり感心しなかった。父の幽霊が、あまりに救いになりすぎている。幽霊としてさえ出てきてもらえないことこそ、苦しいのではないか。解説の今村忠純はこの作品を「最新の夢幻能」と評価しているが、幽霊として現れる父・竹造は、やさしく娘を勇気づけるばかりで、いっさい自分の主張をすることなく、能の幽霊のように苦しみを訴えることもない。もしこの作品に、被爆者に対する癒し以上の、反原爆のメッセージが込められているとすれば、結果として嫌みなやり方に走っているとも言えなくもない。

[J0407/230928]

新井政美『イスラムと近代化』

新井政美編著、副題「共和国トルコの苦闘」、講談社選書メチエ、2013年。

序章 オルハン・パムクと「東洋vs.西洋」
第一章 トルコ共和国成立前後における改革とイスラム
第二章 ポスト・アタテュルク時代のイスラム派知識人
第三章 一九五〇~七〇年代のイスラム──ヌルジュとトルコ‐イスラム総合論
第四章 第三共和政下のイスラム──ギュレン運動、公正発展党
終章 ふたたび「東洋vs.西洋」

[J0406/230926]

山我哲雄『聖書時代史 旧約篇』

岩波現代文庫、2003年。1992年の『旧約新約聖書時代史』から、旧約聖書の部分を改訂・増補・省略したもので、年表や周辺情報などは底本の方が詳しいとのこと。

第1章 乳と蜜の流れる地
第2章 歴史と伝承
第3章 カナンの地におけるイスラエル民族の成立(前12世紀‐前11世紀前半)
第4章 王制の導入といわゆる統一王国の確立(前11世紀後半‐前10世紀)
第5章 王国分裂後のイスラエル王国とユダ王国(前9世紀‐前8世紀前半)
第6章 アッシリアの進出と南北両王国の運命(前8世紀後半‐前7世紀)
第7章 ユダ王国の滅亡とバビロン捕囚(前6世紀前半)
第8章 ペルシアの支配(前6世紀後半‐前4世紀中葉)
第9章 ヘレニズム時代
第10章 ハスモン王朝からヘロデ大王まで

まえがきから。「この意味で、旧約聖書においては、歴史的現実世界を離れた天国も地獄も存在しない。イスラエル・ユダヤ民族が体験する歴史的事態が、そのまま天国になりもすれば地獄にもなるのである。東アジアの宗教が一般的に、現実世界の変化を無意味な「諸行無常」と見なし、そこから「解脱」して「彼岸」に至る救済を希求する傾向が強いのに対し、旧約聖書は、歴史の中で生起する事柄をそのまま神の意志、神の行為の表現として、限りなく真剣に受け止めるように説くのである。この意味で旧約聖書の信仰は極めて「此岸的」、「この世的」(ツィンマリ)であるとも言えよう」(ix)。

第3章から。「「イスラエル」というこの部隊連合の名称は、それが当初よりヤハウェという神の崇拝を中心に形成されたものではなかったことを示唆している(創三三20参照)。…… イスラエルという名称におけるエルがいずれの意味であるにせよ、このことは、まずヤハウェ宗教が到来する以前に、すでにエルを中心として「イスラエル」という部隊連合の形成が始まっており、その後、より強力な神ヤハウェがもたらされ、このエルとの同一視によって「イスラエルの神」とされたことを推定させる」(62)。

第4章から。「ソロモンは、このようにして流入した富を利用して、首都エルサレムを中心に大規模な建築活動を行った。何よりもまず、彼はエルサレムの市街を大きく北側に拡張し、町の北東のシオンの丘にフェニキア人の建築家の手により(王上五17-20)壮麗なフェニキア・カナン風の神殿を建設し(王上六1-36)、その中に、かつてダビデがエルサレムに搬入した「契約の箱」を安置した。これにより、今日にまで至るエルサレムの「聖地」としての地位が確立された」(91)。

第7章から。「アッシリアによって滅ぼされた北王国と、新バビロニアによって滅ぼされた南王国とでは、征服者側の占領政策の微妙な違いが、民族のその後の運命に決定的な相違をもたらした。アッシリアもバビロニアも征服した民族に強制移住政策を行ったが、アッシリアが旧北王国の住民をアッシリア領土内各地に分散させ、また旧北王国領に他の地域の住民を移住させる双方向型移住政策をとり、結果的に被征服民を混合させてしまったのに対し、バビロニアは旧ユダ王国の住民を比較的まとまった形でバビロン近郊に住まわせ、しかも一方向型移住政策で満足して、旧ユダ王国領土を放置し、そこに異民族を植民させなかった。それゆえユダの人々は、バビロンにおいてもその民族的同一性をかろうじて維持することができ、しかもバビロン捕囚終了後には故郷で民族の再建を図ることができた」(172)。彼らがやがてユダヤ人と呼ばれるようになる。

「かつてヤハウェは、神の都エルサレムの不滅と(詩四六5-10、四八5-12等)ダビデ王朝の永遠の存続を約束した(サム下七12-16、詩八九20-38)。それにもかかわらず、エルサレムの神殿が灰塵に帰し、ダビデ王家最後の王がみじめな姿で捕囚に連れ去られたという厳然たる事実は、ヤハウェの約束と力とに対する深い疑念を呼び起こした(詩八九39-52参照)。それゆえ王家の滅亡と捕囚という事態は、深刻な信仰の危機をもたらしたのである(エレ四四16-19)」(174)。こうした事態から、歴史家たちが申命記史書と呼ばれるヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記の編集を行った。「すなわち彼らは、イスラエルの歴史を民の側の罪と契約違反の歴史と描き出すことにより、王国の滅亡と捕囚という破局が神からの正当な罰であり、その責めはもっぱら民の側にあることを示し、この事態が決してヤハウェの敗北や無力を表わすものではなく、むしろまさにヤハウェの義と歴史における力を示すものであることを論証したのである。他方で彼らは、登場人物たちの口や行動を借りて、罪の悔い改めとヤハウェへの立ち帰りを説き、民族復興の希望を与えようとした」(175)。

第8章。アッシリアやバビロニアの強権政策とまったく対照的に、寛容な被支配民政策をとったキュロスやペルシア。バビロン捕囚民も解放へ。「そしてこのような寛容政策が事実極めて効果的であったことは、少なくてもユダヤに関しては、その後の歴史によって実証される。ユダヤ人はその後ペルシアがアレクサンドロス大王によって滅ぼされるまで、反乱らしい反乱は起こさず、捕囚後のユダヤ人共同体復興の指導者であったゼルバベル、ネヘミヤ、エズラもペルシアの大王の忠実な臣下であった」(189-190)。

第9章。「前167年、アンティオコスは、ペルシアおよびヘレニズム諸国家の支配者たちがとってきたユダヤに対する宗教的寛容政策を棄て、ユダヤを徹底的にヘレニズム化することを決意した。…… これはイスラエル・ユダヤ民族がかつて体験したことのなかった規模の宗教的迫害であり(前9世紀のアハブ・イゼベル時代や前7世紀のマナセ時代でさえヤハウェ宗教を奉ずること自体は禁じられなかった)、ユダヤ人一人一人に信仰をとるか生命をとるかの決断を迫るまさに「信仰告白的状況」であった」(240)。ハシディーム(敬虔者)の殺害が起き、ここから、死者復活の信仰も生まれてくる。

第10章。前142-1、ユダ王国滅亡から450年ぶりに、シモンがユダヤ独立国家を復活させる。前30年のローマによる征服までの、「ハスモン王朝時代」。


[J0404/230925]