Month: December 2021

スティーヴン・ルークス『現代権力論批判』

中島吉弘訳、未来社、1995年。原著のPowerは、1974年。権力論の古典のひとつということで。

1 序論
2 一次元的権力観
3 二次元的権力観
4 三次元的権力観
5 権力の基礎概念
6 権力と利害
7 三つの権力観の比較
8 難問
9 結論

権力理解の三類型を整理しているわけだけど、その類型と対応するところの、既存の政治学や社会学の前提を問い直すという意図がある。最初に批判の対象としておかれているのは、ロバート・ダールの権力論。

ここでは、前者・権力理解に関してのみ、自分用に整理とメモをしておく。なので「一次元的権力観」を「第一相の権力」と言い換えてみたい。第一相の権力とは、ある争点をめぐって、複数の主体が争う場合に行使される権力のことである。第二相の権力とは、利害の不一致に発する争点を争点化しないように誘導する権力である。第三相の権力とは、そもそも、ひとびとの知覚や認識、選好までを形づくり、伏在的な紛争を覆い隠す権力である。(この「伏在的な紛争」がまた論点にはなってくる。)

ルークスに言わせれば、権力の第一相と第二相しか捉えていない、従来の一次元的・二次元的権力観は不十分である。「人々が既存の生活秩序に代わる別の状態を考えたり想像したりできないためか、あるいはその秩序を自然で不変なものとみなしているためか、それとも神が定めた有益な状態として崇めているためか、そのいずれかの理由により、人々はそうした秩序のなかで自分の役割を受け入れているわけだが、まさにそうした形で、人々の知覚、認識、さらには選好までをも形づくり、それがいかなる程度であれ、彼らに不平不満を持たせないこと、それこそが権力の至高の、しかももっとも陰険な行使なのではあるまいか。苦情の不在は真正の合意に等しいと想定することは、定義上、虚偽の合意ないしは操作された合意でありうる可能性をあっさりと排除してしまうことになる」(40)。

ルークスのこの議論は、第三相の権力まで含めると、権力は意識的にも無意識的に行使される――そもそも行使という言葉が不適切だとも指摘している――としており、「知」の働きを強調したミシェル・フーコーの権力論と重なり合う。ただし、フーコーの場合は、「君主の権力」に対して「生-権力」を問題にしたように、その関心は近代に特殊な権力形態にあったが、ルークスの第三相の権力はより一般的な権力の形態であって、実際、彼が例のひとつとして強調しているのはヒンドゥー教のカースト制度である。

さて以下は、本書に掲載されている権力概念の模式図。(転載元:Nadine Naguib Suliman, “The Intertwined Relationship between Power and Patriarchy.” <https://www.mdpi.com/408978>)

Societies 09 00014 g001

この図で言うと、点線部分が権力とされているわけだけど、おそらく、Authorityと重なる部分のPower が第三相ってことなんだろう。たぶん。

先に述べたとおり、第三相の権力が覆い隠しているとされる「伏在的な紛争」が問題である。それは「有意味な反実仮想(レリヴァント・カンターファクチュアル)」によって、けして思弁的にだけではなく語りうるものだとされている。ルークスは、あくまで経験的な社会学や政治学の範疇内で議論を展開しようとしているが、この点を突きつめはじめると、それ以上の哲学的議論にもなってくるだろう。

[J0221/211217]

関耕平・平田直樹「地方競馬の変遷」

『山陰研究』1号、65-79頁、2008年。島根大学学術情報リポジトリのこちらのページから、ダウンロード可能。石岡学『「地方」と「努力」の現代史』(青土社、2020年)を眺めていて、存在を知る。

2002年に廃止された、益田競馬の歴史を馬主の方から聞き書きした記録をまとめたもの。もともとは地域の娯楽、花競馬からはじまって、競馬場が正式に開設されたのは1947年。後には、女性騎手のはしり、吉岡牧子といったスターも生んでいる。かつては農耕馬と兼ねていたとか言う話もおもしろいし、もともとは隠岐の牛突きを思わせるような雰囲気の地域行事であったことが分かる。かつては馬主と調教師と厩務員と騎手の区別はなかったが、それがだんだんと制約が厳格になっていった話だとか。益田競馬の盛衰をすべて経験してきた話者の、貴重な記録。

1 生い立ち・地域や家のこと
2 花競馬について
3 花競馬の思い出
4 花競馬の最後
5 高校の思い出
6 馬主をはじめた頃
7 馬と一緒に山仕事・田仕事
8 農耕馬としての利用をやめた時期
9 益田競馬、はじめのころ
10 当時の馬の世話
11 馬の世話ができなくなって
12 競馬から離れ農業に専念
13 馬主をやめていた時期の益田競馬
14 馬主を再開
15 共同購入・抽選馬について
16 益田競馬での賞金や出走手当など
17 競馬場廃止の兆候
18 益田競馬の廃止
19 益田競馬、最後の日
20 福山競馬のこと
21 いきがいとしての馬主

[J0220/211216]

大濱徹也『明治の墓標』

河出文庫、1990年、原著1970年。

日清戦争
 1 「小国」の焦慮
 2 「義戦」の構造
 3 軍国の狂躁
「臥薪嘗胆」
 1 栄華と悲惨
 2 尚武と煩悶
 3 北清の屍
日露戦争
 1 諜者の群
 2 開戦の渦
 3 兵士の相貌
「愛国」の重荷
 1 ああ増税
 2 戦時下の村
 3 深まる亀裂
明治の秋
 1 勝利の悲哀
 2 病める「一等国」
 3 荒廃の淵で

日清戦争が 1894年7月から95年4月、後に三国干渉。日本社会では、足尾銅山関係の動きがあったり、横山源之助が『日本の下層社会』を出版したり。日露戦争が 1904年2月から05年9月まで。後にポーツマス条約に日比谷焼き討ち事件。東北大凶作。

アジア太平洋戦争とそこでの敗戦との対比から、栄光の歴史として語られがちな日清・日露戦争、しかし戦争はやはり「民衆にとり、生活の基盤を根こそぎつきくずす衝撃波」であったことを、当時の庶民生活を辿って描き出した書。

キリスト者は国家への赤誠を示すように戦場を慰安にかけめぐる。新型コロナよろしく、戦争は、鍛冶屋や洋服屋といった特定の業種には戦争景気をもたらしたが、無関係な業者には不景気をもたらすとともに、生活必需品を値上がりさせる。また、日清戦争は、糸や布などを自給していた村々の生活様式を一変させた(83-84)。

日清戦争後の社会では「武士道」が説かれ、薩摩隼人のバンカラ風が流行したが、それは稚児さん趣味、美少年趣味の隆盛をともなうものだったという(95-96)。

日露戦争は、ニコライをはじめとする正教に苦境をもたらしたが、政府は努めて彼らが迫害を受けないように諸策をとったという。「政府のこうした態度は、戦争がキリスト教国に対する挑戦とうけとられ、ある種の「宗教戦争」化することへの懸念によっていた。もし、「宗教上ノ争ニ起因スルカノ観念ヲ惹起」したならば、欧米の同情、いうなれば世界の同情を日本は失わねばならなくなるからである。それは日本の敗北を意味した。とくに、ロシアが日露戦争をキリスト教国と非キリスト教国の戦争として、世界世論に訴えていただけに、日本は神経質なほどこまやかな配慮をしなくてはならなかった。そのため宗教のみならず、言論思想活動についてもある程度の「自由」を保障したのである。すなわち、政府は別記のような社会主義者の反戦平和運動についても、その「活動」をある程度まで許容する態度をとらざるをえなかった」(142)。ふーむ、なるほど。日本近代宗教史にとってはもちろん、社会主義運動史にとっても重要な指摘。戦時のキリスト者の「活躍」の背景でもあるか。

日清と日露でもまたちがって、農村への管理はより強くなったようだ。勝利の華やかさがよく目立ってきた一方で、戦時下・戦後の庶民生活には貧困や怒り、倦怠や退廃が強く漂っていたことがわかる。

[J0219/211216]