ちくま新書、2024年。話題の本ということで、眺めてみた。ちゃんと読んではないです、ということを前提にしたメモの書きつけ。
第一章 歴史家にとって「史料」とは何か
1 根拠としての史料
2 記録を残す
3 記録を使う
4 歴史学と文書館第二章 史料はどのように読めているか
1 史料の引用と敷衍――史料批判の前に
2 逓信次官照会を読む――「史料があること」が「何かがおこなわれたこと」を示す場合
3 新聞記事を読む――史料に書いてあることをどの程度疑うか
4 御成敗式目を読む――史料の書き手と歴史家の距離第三章 論文はどのように組み立てられているか(1)―― 政治史の論文の例
1 歴史学の論文と歴史研究の諸分野
2 政治史の叙述――高橋秀直「征韓論政変の政治過程」
3 政治史叙述の条件第四章 論文はどのように組み立てられているか(2)――経済史の論文の例
1 マルクス主義的経済史
2 経済史の叙述――石井寛治「座繰製糸業の発展過程」第五章 論文はどのように組み立てられているか(3) ―― 社会史の論文の例
1 社会史のなかの運動史
2 社会史の叙述―― 鶴巻孝雄「民衆運動の社会的願望」第六章 上からの近代・下からの近代 ―― 「歴史についての考え方」の一例
1 歴史についての考え方と時代区分
2 「近代」、このやっかいなもの
3 歴史研究との向き合い方
Xなどで、「類書のない本」ということで絶賛されている模様。たしかにこういう本は見あたらないし、あると良い本だし、どんどん売れて読まれるといいと思う。ただ、個人的には、夢中になって読むというかんじでもない。
一方では人文社会科学の世界にも襲ってきている自然科学主義の台頭があり、他方ではSNS上の歴史修正主義のような短絡的言説の横行があるなかで、どちらでもない歴史学の方法とその意義をしっかり説明していこうという、本書のそういう方向性にはたいへん共感。
たとえば、次のような丁寧な説明。「史料批判という作業は、「書いてあること」→「それが実際にあったことと合致しているか」という二段階でおこなわれるわけではなく、あらゆる史料で「ここにこう書いてある」ことを確認しながら、「ここにこう書いてあるということから、どこまでのことが言えるのか」について、レベル分けをしながらおこなわれるものです」(290)。
ざっと眺めたかぎりでこれも盛り込んでほしかったと思うのは(もし見落としてたらごめんなさい! もし指摘してもらえたらありがたい)、歴史学を含むある種の人文社会科学は、そもそもそれに関する入手可能なデータがかぎられている「現実」を扱うものだという点について。そこにこそ、データ至上主義の自然科学主義とは異なる方法や発想が必要になる理由があるというのが、僕の考え。この点、ヴィンデルバントの法則定立的学問と個性記述的学問の区別は、利用可能なデータの量の観点から読み替えた方がより適切な説明になるのでは、と考えている。
本書の着想に、エスノメソドロジーがヒントになっているというのもとてもおもしろく刺激的なのだが、ここでも同様のことが気にかかる。本書が歴史学にエスノメソドロジーの発想を援用するのは、「過去の人びとの方法」と「歴史学者の方法」という二重の水準においてである(「おわりに」)。ただ、エスノメソドロジーは、マクロで生き生きした(つまり、相互作用の現場に関する)データが豊富に利用可能なことを前提にしているとおもうが、「過去の人びとの方法」に関してはそれは不可能である。ここで、歴史学がデータにおいて劣っており、成立困難な学問であると言いたいわけではない。むしろ、データが原理的に限られている領域において、それを前提に説得力ある解釈をつくりあげる独特の技法や工夫に、歴史学の方法の意義が求められるべきではないかというのが、ど素人の僕なりの考えだ。
かなり穿った見方をすれば、本書であげられている「社会史」の方法の例が、心性史・感性史のものというより、民衆運動史のものである点も、上記の論点が取り上げられていないことと並行しているかもしれない。
以上、ざっと眺めた際のメモ。また機会があったときにちゃんと読みます。
そういえば、同著者・松沢裕作『町村合併から生まれた日本近代』(講談社選書メチエ)については、過去にこちらの記事のなかで触れたことがある。
> 本ブログ記事「町村合併関連2冊」
[J0529/241101]
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