十川幸司訳、講談社学術文庫『メタサイコロジー論』、2018年所収。訳者解説によれば、本論文「喪とメランコリー」の初稿は1914年に書かれ、論文として発表されたのは1917年。なお、タイトルにもある「喪」は、ドイツ語Trauer の訳。

グリーフ研究の出発点ともされる本論文だが、喪よりもメランコリーに重点がある。「今度はメランコリーの本質を喪という正常な情動との比較を通して明確にすることを試みようと思う」(131)って冒頭に書いてあるやん。というか、論の全面を通して、そもそも治療のことよりも、人間精神を把握したい、そのための概念をつくりたいという関心が勝っているように思われる。喪のことは、そのための一材料にすぎないという印象。

メランコリーとは、正常な情動である喪の、ある種の逸脱形態である。「正常な状態とは、現実に対する尊重が勝利を保つことである」(133)と言われる。フロイトは内的な精神世界の探求者とみなされてきたし、それが嘘というわけでもないだろうが、ここでは、ごく常識的なかたちで現実/非現実を区別しているようにみえる。現実なるものの境界の曖昧さを意識しているようには思えない。

メランコリーには、対象の喪失、両価性、自我へのリビドーの対抗という3つの条件があげられている(152)。対象の喪失だけならば、喪と共通しているというわけだろう。

「メランコリー患者には、さらに常軌を逸した自我感情の低下と顕著な自我の貧困化が生じるが、喪の場合にはそのような特徴は見られない。喪の場合は世界が貧しく空虚であるが、メランコリーの場合は自我それ自体が貧しく空虚になる」(135)。

メランコリー患者に見られる自己避難について。「自己批判を、愛する対象への非難が方向を変えて患者の自我に向けられたものと理解するなら、私たちはメランコリーの病像の鍵を手に入れたことになる」(138)。「リビドーは、そこで自由に使われるのではなく、放棄した対象を自我に同一化させるために用いられる。・・・・・・対象喪失は自我喪失に変わり、自我と愛する人との葛藤は、自我批判と同一化によって変化した自我の内的分裂に変わったのである」(140)。

「喪は自我に対象を断念させるために対象の死を明らかにし、生き残ることの利得を自我に示す。それと同様に、メランコリーのあらゆる両価性の葛藤は、対象に対するリビドーの固着を緩めるために対象を貶め、価値を落として、いわばそれを打ち倒すのである」(151)。

実は、喪については上に挙げたくらいのことしか書いていない。少なくとも本論文において、フロイトにおける喪の概念は、メランコリーという症状を検討するために引きあいに出されているものであり、探究の対象ではなく最初から前提されているものにすぎない。フロイトの探究のまなざしは、メランコリーやヒステリーといった歪んだかたちの精神現象に向けられているが、それは、その歪み方を通じてこそ、表面からは隠された心理的メカニズムがみえてくるという発想にもとづくものではないか。わざわざ、「喪という正常な情動」を取り上げるのではなくて、メランコリーの方を主題として取り上げようとする問題設定のしかたにそうしたフロイトの発想法を感じる。

[J0548/241213]