副題「不要不急の人類学ノート」、柏書房、2024年。

プロローグ 私たちがコロナ禍に出会い直さねばならない理由
1章 新型コロナの“正しい理解”を問い直す―人類学の使い道
2章 新型コロナと出会い直す―医療人類学にとって病気とは何か
3章 「県外リスク」の作り方―医療人類学と三つの身体
4章 新型コロナと気の力―感染拡大を招いたのは国民の「気の緩み」?
5章 私たちはなぜやりすぎたのか―日本社会の「感じ方の癖」
6章 いのちを大切にするとは何か?―介護施設いろ葉の選択
エピローグ コロナ禍の「正義」に抗う

まあまあまあ、論文じゃあるまいし、朝日新聞の連載記事をまとめたものというから、目くじらを立てるほどのことでもないかもしれないが・・・・・・。

 人類学というけれど、ベネディクトやらダグラスやら、あれこれの理論やら概念やらを思いついたようにもってきて、(しかもしばしば無批判に)当てはめるようなやり方でいいのだろうか。全体を通して一貫した理論なり視点なりといったものは希薄。

 コロナ対策の「やりすぎ」を指摘する、コロナ対策に関するいままでの常識を相対化する、というスタンスのようだけど、コロナ対策への違和感って、もともとみんなが薄々、ないしはっきりと感じながら過ごしてきたことではないのか。この本をみていると(終章をのぞいて)「著者だけがそれに気づいている」みたいな言い方だが、多くの人が違和感を感じつつ、大いに悩みながら対策を打ってきたところに対して、「その対策の単純さを問い直す!」みたいな姿勢で臨むのは適切だろうか。

 フーコーに言及した後で、個人行動の規律・統制によって「県をまたぐ移動の自粛要請」が成功した理由について次のように説明しているところ。「それは、県を管理する人びとの目線を県民に埋め込むためのプロジェクトであったからである」(93)。埋め込むというからには、その主体として「県」という地方行政が想定されているようだが(そう解釈されてもしかたがない)、フーコーの生=権力や規律的権力は、主体が特定されないところがポイントであって、著者のように、まるで行政だけがその積極的な担い手であるかのように、行政と県民を対置するかたちで記述するのは、フーコーの誤読であるのみならず、この言説を通した直接的な害まであると思うのだが。

 本書は、本書の人類学的な立場なるもの、相対化する立場なるものを相対化できているのだろうか。なんだかずいぶん厳しいコメントになってしまったが、「人びとの啓蒙」にいそしむリベラル派にしばしばみられる、まったく無自覚に前提している「こちらが善」という感覚には、過敏ぎみに反応してしまう。僕自身もまたリベラルであるゆえ。

[J0522/241011]