Category: Japanese Articles

片山杜秀『皇国史観』

文春新書、2020年。

1 前期水戸学
2 後期水戸学
3 五箇条の御誓文
4 大日本帝国憲法
5 南北朝正閏問題
6 天皇機関説事件
7 平泉澄
8 柳田国男と折口信夫
9 網野善彦
10 平成から令和へ

水戸学以下の皇国史観・天皇観を、当時の政治の動きと結びつけながら論じる。ある程度長いスパンで解釈を成り立たせているところがポイントのひとつ。これだけ皇国史観を相対化しているのだから、右の人というわけではないのだろうけど、ひたすら天皇や天皇制を下げるタイプの人でもなく、歴史に対する好奇心が勝っている感じ。

伊藤博文による明治国家のデザインに関して。「明治憲法とセットでつくられた皇室典範は、天皇の存在をより具体的に縛りつけるものでした。そのポイントは二つ。まず天皇は終身、天皇であることを義務付けられたことです。自分の意志で即位、退位を決定する自由は奪われているのです。もちろん譲位も認められていません。第二に、皇位を継承するのは基本的に天皇の長男に限定されます。それが実現できないときも、継承順位はあらかじめ決められている。つまり天皇に後継者を指名する権利も認められていないのです。これらは敗戦後に新たに制定された皇室典範でも受け継がれ、平成の終わりに天皇の意思に基づく「生前退位」が実現するまで、私たちの「常識」となっていましたが、近代以前の天皇のありかたと比べると、きわめて大きな制限であることがわかります。つまり、誰が次の天皇にするかが、天皇ではなく、法律=国家によって決められるようになったのです」(93)。

「いつ誰を天皇にするかを決める〝人事権〟を認めてしまえば、それ自体が大きな権力となってしまいます。伊藤は、天皇自身さえも、そうした権力を持たないようにしたのです。ところが、こうした伊藤のデザインに最後まで抵抗したのが、ほかならぬ憲法の原案を起草した井上毅でした。......しかも厄介なことに、その井上が反対したのは、伊藤の憲法プランの核心ともいえる「輔弼」という概念だったのです。.....伊藤からすれば、井上は憲法制定における最大の功労者であると同時に、強硬な批判者でもあったのです」(94)。

天皇観と政治との関連が直接に扱われている平泉澄のところまでが主要部かな、と。柳田・折口・網野のところになると少しその問題を離れる印象。

[J0584/250512]

アマルティア・セン『人間の安全保障』

東郷えりか訳、集英社新書、2006年。講演録などのセレクション。

安全が脅かされる時代に(2003年)
人間の安全保障と基礎教育(2002年)
人間の安全保障、人間的発展、人権(2003年)
グローバル化をどう考えるか(2002年)
民主化が西洋化と同じではない理由(2003年)
インドと核爆弾(2000年)
人権を定義づける理論(2004年)
持続可能な発展―未来世代のために(2004年)

「〈人権〉の宣言は本質的には倫理上の表明であって、何よりも、一般に考えられているような法的な主張ではないのです。これについては、ジェレミー・ベンサムがそれを法的な主張とみなして、執拗に攻撃したために、かなりの混乱が引き起こされています」(138)。
「たとえば、拷問されない権利は、すべての人が拷問から解放される自由の重要性から生じるものです。しかし、そこにはさらに、「あらゆる人を拷問から解放するために、ほかの人は何ができるのかを考えなくてはならない」という主張も含まれています」(138)。
「〈人権を定義づける理論〉は、今後も検討や討論、論争を重ねる余地を残しうるものなのです。開かれた〈公共の論理〉という取り組みは、〈人権〉を理解することの中心です。・・・・・・議論の余地のある分野を許容することは、〈人権を定義づける理論〉としてなんら具合の悪い問題ではないのです」(140)。

[J0583/250511]

鈴木宏昭『私たちはどう学んでいるか』

ちくまプリマー新書、2022年。実験にもとづく認知科学から、学習や上達の過程を探る。佐伯胖さんの弟子筋の方で、生田久美子さんの本なども引用。雑にまとめてみて、学習や上達は複合的な過程の総合からなる、と言ってみる。

第1章 能力という虚構
第2章 知識は構築される
第3章 上達する―練習による認知的変化
第4章 育つ―発達による認知的変化
第5章 ひらめく―洞察による認知的変化
第6章 教育をどう考えるか

メモ。

言語隠蔽効果。「コトバは、全体性を持つような場面や対象、また直感的な理解を表現するには適していない。そうしたものをコトバで表現すると、認識が阻害されることもある。たとえば人の顔や声はコトバで表すことは難しい。これを無理にさせるとどのようなことが起きるかといえば、それらの認識の低下なのである。」(60-61)

スキルの上達過程で一時的な後退や停滞が起きるのは、すぐれた技法を取り入れたときに、その技法を、操作過程の全体と調整させる過程が必要だから、らしい。「スキルの実行のある特定の時点で、同じ結果を生み出す操作が複数存在している。操作方法には、それが実行される環境の要素が含まれている。また自分の身体、禅との操作も環境となる。操作方法と環境との間の相性が揺らぎを生み出す。その揺らぎをバネにして新しいスキルが創発する」(106)。

スモールステップ式教育への批判。「遠隔項の存在を知らずに近接項に特化した学習が行われる場合には、結果として形だけの結果の模倣が生み出される。これは融通の利かない、転移の可能性がないものになる」(200)。「チェックリストなどの「きちんと教える」教育は、やっている方も受けている方もなんとなく満足する。「ここまでやった」、「ここをクリア」、「次の課題はなんだ」などという雰囲気に浸れる。しかし、これは「教育ごっこ」に陥る危険性は高いと思う」(201)。マイケル・ポランニーへの言及、徒弟制の意義への着目。

模倣の意味。「佐伯胖によれば区別すべき2つの模倣がある。一つは「結果マネ」というものである。これはとにかく同じようにやること自体が目的となる模倣であり、「最初はこれ」、「次はこれ」・・・・・・のように、近接項レベルの模倣を生み出す。もう一つは「原因マネ」である。これはその技が生み出される原因つまり遠隔項を真似ることで、結果として演技自体を真似ることになる。これは近接項を生み出す遠隔項へ焦点を当てた模倣と言えるだろう。生田は前者を「形(かたち)」、後者を「型(かた)」と読んで区別している」(204-205)。「こうした二つの異なるマネを生み出すのは、共有経験の有無である」(205)。

[J0582/250430]