ちくま新書、2024年。「引用――誰を、何を、どのように引用するのか――は決して事実中立的な行為ではない。それは政治的な行為なのだ」(257)として、バトラーの理論を、男性哲学者からなる既存の哲学史の文脈の上に置くのではなく、エスター・ニュートン、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、モニク・ウィティッグ、キンバリー・クレンショー、ベル・フックスといった、「勇敢な」論者たちからなるフェミニスト的記憶の系譜から解説する。

プロローグ―『ジェンダー・トラブル』非公式ファンブック
第1章 ブレイブ・ニュートン!
第2章 ジェンダーに「本物」も「偽物」もない!
第3章 ”You make me feel like a natural woman”
第4章 「ジェンダーをなくすんじゃなくて増やそう」って話
第5章 「私たち」って誰!?
第6章 「クィア理論って何?」
エピローグ―“トラブル”の共鳴

フェミニズムからも排除されていたレズビアン。「当時、レズビアンは「男っぽい女」だという偏見が広く共有されていた。いわば、「男性と同一化した」存在と捉えられていたのである。したがって、フリーダンがレズビアンを「ラベンダー色の脅威」と呼んだのは、フェミニズム運動の内部にレズビアンによって「男性文化」が持ち込まれること、あるいは端的にホモフォビア(同性愛嫌悪)があったらだと言える」(35)。

この本を読みながら、そうか、フェミニズムにも、男女区分を前提とした思想や運動と、男女区分自体を問題にする思想や運動があるわけだなと(周回遅れ)。

バトラーの「パフォーマティヴィティ」の解説。それは「ジェンダー・エクスプレッヴ・モデル」と対置される。「一般的に「生来の本質」が「外側」に表出されたものとして考えられがちなジェンダーという「行為」だが、実は、その「行為/パフォーマンス」の反復や積み重ねによって、「内側」にあるとされている「本質(と想定されているもの)」があたかも最初から存在するかのように事後的に作られていく、というのがバトラーの見方だ」(74)。

ジェンダーの演技モデルについて。「ところで、このような「演技モデル」という説明の仕方を、『ジェンダー・トラブル』以降のバトラーは敬遠するようになる。それはこのような説明が多くの誤解を招きがちだったからだ。ひとつに、「演技」や「パフォーマンス」というニュアンスから、「ジェンダーは自由に選択できる」という誤解が生まれてしまった。しかし、それが誤読であること席に引いた引用文からも明らかだろう。実際に、私たちが日々行うジェンダーという行為はむしろ「強いられる」ことのほうが多い。またそれとは逆に、バトラーのジェンダー・パフォーマティヴィティは「決定論」であるという誤解も生まれた。ジェンダーは権力によって強制され、私たちのアイデンティティはそれによって「決定」されるのだという解釈である。いわば、私たちは社会によって強制的に演技をさせられ、私たちの存在はそれによって決定されてしまうというわけだ」(77-78)。続く著者の説明、「演技」とは、台本があって「自由な行為」ではないが、すべてを決定するわけでもない。台本に対する演技はひとそれぞれであり、台本を解釈したり文句を言うこともできるはずだと(78-79)。

このような「演技」「演劇」論批判は、社会学一般における「演技」論や役割理論にも当てはまりそうだ。

あらゆるジェンダーを「ものまね」とする、ドラァグのパフォーマンス。「ドラァグという文化、そしてニュートンのドラァグ・クイーンのエスノグラフィー『マザー・キャンプ』は、バトラーの理論を後押ししただけではなかった。それは、バトラー自身の「生」をエンパワメントするものでもあった」(80)。

「バトラーはブッチ/フェムとドラァグを「ジェンダー・パロディ」として考察していた。もちろん、バトラーにとって、これらの例は、あらゆるジェンダーがパロディの構造をもつということを示すものであって、ブッチ/フェムがそのアイデンティティや生を実際に「パロディ」として生きていると言ったわけではない」(97)。「「生きられているものとしてのジェンダー」に関する問い」。著者が、エスター・ニュートンが引き合いに出して補足するには、「そこで生きられているジェンダーは「パロディとしての自己」ではなく、「真正な自己」「本物の私」という感覚である。そのジェンダーはまさに、彼女らの「土台/基盤(foundation)」を形成しているのだ」(100)。

フェムの「欲望」ないし「好み」の解釈。「ブッチの男性性は「女性の身体」を地=背景にすることでより強調された形で「浮き彫りになる」、ってわけだ。・・・・・・あるいは、その「地」と「図」のあいだのギャップあるいは不連続性、それがエロスを生み出すのだ、と」(92)。

「ニュートンはブッチ/フェムの「目的」が「ジャンダーをなくすこと」ではなく、むしろ「ジェンダーの意味を増やすこと、その意味に磨きをかけること」だと論じている。そして、私の理解では、まさにこのことこそ『ジェンダー・トラブル』を目指したものだった。つまり、『ジェンダー・トラブル』は「ジェンダーをなくすこと」ではなく、「ジェンダーの意味を増やすこと」をこそ目指したものだった、と」(135)。

「「ジェンダーをなくす」という発想は、「いまある権力をなくして、それを超えてしまおう」という発想なのだけれど、バトラーはそのような発想をとらない。それは、「権力」と「その「向こう側」」という対立軸を設定してしまうと、かえって、権力の抑圧形態を強大なものとして固定する発想へとつながってしまうからだった。それに対して、「ジェンダーを増やす」ということは、いまある権力の体制のなかでいろいろな組み合わせのジェンダーを増やして、硬直した「二つのジェンダー」という規範の「自然性」や「自明性」を問うという発想だ」(159-160)。

さらに進めて。「というかさっ、もっと言えば、「ジェンダーを増やす」ってゆうか、そもそも、たくさんのジェンダーが〈いま・ここ〉において具体的な人たちによってすでに現に生きられているのであって、その意味で、「増やす」もなにも、もうすでに「たくさんのジェンダ-」がある」(165)。「このように、バトラーの『ジェンダー・トラブル』は「ジェンダーを増やすこと」を肯定するものだけれど、それは別の言い方をすれば、すでに存在している「たくさんのジェンダー」が「不自然」や「理解不能」とみなされ、社会的に承認されていない現状の「理解可能性」の規範的な枠組みを批判的に解体しつつ、それらのジェンダーが社会的に認められるようにその「理解可能性」を拡張する試みだったとも言える」(167-168)。

[J0510/240907]