Month: May 2024

田上孝一『はじめての動物倫理学』

ベジタリアンやヴィーガンを倫理学の側面から考えるのによい。啓発的な内容で、この本を読んでしまうと、肉食がしにくくなってしまうかも。僕はまだそこまで「回心」できないが。クセを感じる箇所もあるが、勉強になる。集英社新書、2021年。

第1章 なぜ動物倫理なのか
第2章 動物倫理学とは何か
第3章 動物とどう付き合うべきか
第4章 人間中心主義を問い質す
第5章 環境倫理学の展開
第6章 マルクスの動物と環境観

前半は、功利主義、義務論、徳倫理という三つの立場から、動物倫理の基礎を検証する。動物倫理学の創始者といえばピーター・シンガーだが(というか、僕はシンガーしか知らない)、彼の立場は功利主義の立場から、動物の苦痛を問題にするものだという。ただ、そうだとすれば、苦痛を感じさせないように動物を利用・搾取することは問題ないという解釈も排除しきれないので、カント的な義務論を動物に応用することや、徳倫理を適用することが選択肢に入ってくるのだという。

マルクスの専門家ということもあり、後半で動物倫理学に対するマルクス思想の可能性を論じているところも興味深い。人間の商品化が問題化するマルクス思想は、とうぜん、動物の商品化の批判にも通じている。また、マルクスは唯物論の立場から、人間と外的自然を連続的に捉えることによって人間を自然的存在と見なしたのであり、観念論的な心身二元論と、それに基づく環境に対する人間中心主義を克服する可能性を有しているという。

やはり、これら現代の動物倫理学も西洋の思想界がリードしている。思想的基礎を固めて人間中心主義を押しすすめるのも西洋だが、こうして原理的な反省を進めるのもまた西洋である。日本人として、「原理」を全面に掲げる西洋的やり方に反感を持つ人たちの感覚もよく分かるのだが、だからといって、口先だけのアニミズム称揚や自然賛美をしながら、肉でも魚でも、絶滅危惧種までなしくずしに取ったり食べたりする日本社会のあり方も肯定できない(自己嫌悪)。

動物倫理学は、あらためて「人間とは何か」という問いを突きつける。日本ではよく、動物愛護・自然愛護に対する冷笑の一種として、「そもそも愛護を語ること自体が人間の慢心」的な言説がなされたりするが、やはりそれはそうではない。動物に苦痛を与えるか与えないかを選択できるのは、やはり人間ならではの条件である。動物が動物を捕食するのとはわけがちがう。一方で、動物を愛護する根拠のひとつは、「人間も動物も同じ感覚的な主体である」という見方である。だとすれば、人間を特別視し、人間独特の責任を認める見方と、人間と動物を本質的に同じ存在と捉える見方と、両者をミックスしたところに動物倫理学は成立しているということになるはずだ。
[J0472/240521]

寺西重郎『日本型資本主義』

副題「その精神の源」、中公新書、2018年。広い視野からの比較文化の試みは大事だし、著者のような経済学者が宗教に着目している点でも大きな期待をもって読みはじめたが、これはいけない、がっかり。

第1章 イギリスと日本の近代資本主義
第2章 資本主義の精神の宗教的基礎
第3章 高度成長期としての江戸時代
第4章 西洋との出会い
第5章 異種精神の相克と共存の時代へ

1.「鎌倉新仏教」の位置づけ
 現在の仏教史学や宗教学では、「鎌倉新仏教」の革新性とは、明治以降に誇張されたものであること、いわゆる旧仏教が(著者の強調する廻向の論理以外にも)鎌倉時代以降近世にいたるまでさまざまに重要な役割を果たしてきたことは、ほとんど常識になっているといって良い。この点、多くの研究が積み重ねられてきているが、それらをほとんど顧みていない。

2.近代主義的宗教理解
 著者は宗教を「思想」「道徳」や「経済倫理」としてしか捉えておらず、宗教的共同体や教団の社会的形態の時代的変遷を十分に視野に収めていない。とりわけ、中世まで宗教勢力が武家や公家とある意味で並び立つような権門体制を取っていた点について配慮がない。宗教を「思想」や「道徳」としてのみ捉えるのは、典型的な近代主義的宗教理解である。(また、宗教の社会的形態の軽視と同様に、家族形態や親族組織、村落や都市の形態といった社会構造の歴史的変遷についても、思いついたように言及されるばかりで十分ではない。)

3.通俗道徳論と仏教的要素の誇張
 通俗道徳論について、その主唱者である安丸良夫の議論に触れていないのはどういうことか。これと平行して著者は、通俗道徳をはじめとする道徳律の形成について、儒教に対して仏教の影響力の強さを強調しているが、この点についてはまるで説得力がない。論証自体が不十分である。仏教を強調しているのは、おそらく、中国や韓国を「儒教型」の資本主義として、日本を「仏教型」の資本主義と区別したいからでもあろう。資本主義にもさまざまな種類があり、日本と中国でもタイプがちがうというところまでは首肯したいが、だからといって日本が儒教型に対するところの「仏教型」と特徴づけるのは強引にすぎる。

経済学の方ということだから、宗教史や歴史学の専門家と同じ知識を持たなければならないというわけではないが、取りあげている研究があまりにも恣意的すぎる。ハーンやら吉本隆明やらベネディクトやらまで引用して、要するには、歴史学の研究というよりは、昔の学生さんがよく教養主義的に読んでいた宗教に関する「評論」がベースになっている。逆になぜ、もっとも内容面で近いはずのベラーや内藤莞爾の古典的研究に言及がないのかも理解に苦しむ。それぞれの分野で、最低限知っておかねばならない研究の流れというものがあるのは、経済学でも同じはず。ある分野で偉くなってしまうと、そういう基本的なことを指摘してくれる人がいなくなってしまうのかもしれない。
[J0471/240519]

末近浩太『中東政治入門』

これは好著、めちゃめちゃ勉強になる。著者自身が説明しておられるとおり、「イスラームだから」「中東だから」という文化本質主義の立場を遠ざけながら、中東政治の動態に見通しを与える。したがって、適用範囲を中東地域にかぎることのない、国家政治・国際政治のダイナミクス一般に関する視角をも与えてくれる一冊となっている。ちくま新書、2020年。

第1章 国家―なぜ中東諸国は生まれたのか
第2章 独裁―なぜ民主化が進まないのか
第3章 紛争―なぜ戦争や内戦が起こるのか
第4章 石油―なぜ経済発展がうまくいかないのか
第5章 宗教―なぜ世俗化が進まないのか
終章 国際政治のなかの中東政治

中東における国家の不安定性は、その「人工性」の高さによるという。

「なぜ、独立後の中東諸国に独裁が横行するようになったのであろうか。その鍵は、国家としての能力と正統性にある。軍事と経済の両面での旧宗主国への依存から脱却できなかったこと、つまり、ポストコロニアルな支配が続いたことは、次の二つの面で独立後の新政府に大きな課題を突きつけた。第一に、徴税と課税からなる収奪国家としての近代国家の能力が不十分なままに置かれ続けたこと。第二に、植民地国家の時代からの正統性の問題がくすぶり続けたことである」(63)。

ベンジャミン・ミラー「国家と国民の不均衡」論から(158-159)。民族(アラブ人など)の定義と国家の枠組みのずれが、問題状況を生じせしめる。あるいは、国家を持たない民族や民族を持たない国家が国民統合を阻害するパターンも、中東ではしばしば。これらの「ずれ」の状況は次に、修正主義の動きを生む。それは、国家による侵略・併合である場合もあれば、非国家的な主体による修正主義運動というかたちを取ることもある。

アラブ世界における国家建設の理念には、三種がある(163)。すなわち(1)民族に基づいた属人的な民族主義(カウミーヤ)(2)郷土を単位にした属地的な国民主義(ワタニーヤ)(3)イスラーム法にしたがった国家建設をめざすイスラーム主義であり、「この三つの国家建設の理念は、それぞれ国民、領域、主権のどれを最重要視するかという点に違いがある」(164)。

イスラームと過激派との結びつきについて。

「1970年代には、イスラーム復興の気運を追い風にして、中東諸国で無数のイスラーム主義運動が結成された。当時、ほとんどの中東諸国が「名目的な宗教国家(世俗国家)」ないしは「非宗教国家(世俗主義国家)」であったことから、イスラーム主義運動は各国で反体制運動としての「定位置」を占めることになった・・・・・・。しかし、中東諸国は権威主義体制の「宝庫」であったため、イスラーム主義運動は、選挙や議会を通して自らの要求を自由に訴えることができず、厳しい取り締まりや激しい弾圧の下での活動を余儀なくされた。その結果、体制に対する武装闘争も辞さない過激なグループが生まれることになった」(261-262)

オスマン帝国解体後の「人工的な」国家形成といい、イスラエル問題といい、結局、西洋列強が諸悪の根源であって、イスラームの「過激化」もまたこうした状況の産物であるとの印象が強い。

もうひとつ自分用にメモ、中東諸国の政教関係について。

「政治学者J.シュウェドラーは、ほとんどすべての中東諸国が「宗教の公的な地位を定義している」ことから「宗教的」であると述べている。ただし、その内実には違いがあり、「実質的な宗教国家」と「名目的な宗教国家」の二つに大別できるという。「実質的な宗教国家」は、「政治、社会、経済の諸問題への宗教法の完全な適用を重視する国家」であり、サウジアラビア、イラン、イスラエルが該当する。・・・・・・「名目的な宗教国家」には、宗教の公的な地位について、①「支配エリートが預言者ムハンマドの直接の血縁であることを根拠にした権威を主張する」場合、②「憲法がイスラームに国教とする公的地位を与える」場合、③「憲法が元首はイスラーム教徒でなくてはならないと規定する」場合の三つのタイプがある。①はヨルダンとモロッコ、②はサウジアラビア以外の湾岸アラブ諸国、エジプト、リビア、イエメン、イラク(2003年まで)、③はアルジェリア、チュニジア、シリア、オマーンが該当する。これらの国は、国家のアイデンティティを宗教に依存しているものの、政治過程や立法過程、司法において宗教の影響は制限されているため、実質的には政教分離がなされている。そのため、中東政治学では、世俗国家と呼ばれることが多い」(243-244)

[J0470/240519]