ちくま学芸文庫、2022年。2008年の『良い死』全体と、2009年の『唯の生』第5章以降を収録とのこと。

第1部 良い死
 序章 要約・前置き
 第1章 私の死
 第2章 自然な死、の代わりの自然の受領としての生
 第3章 犠牲と不足について
第2部 唯の生
 第1章 死の決定について
 第2章 より苦痛な生/苦痛な生/安楽な死
 第3章 『病いの哲学』について
おわりに
解説(大谷いづみ)

「自分で決めるということ以前は状況なのです。また自分で決めることが仮にかたちの上で可能になったとしても、〔・・・・・・〕結局生きていこうとするとその負担がご家族に集中的にのしかかってしまうことがあって、それが患者に生きるのをやめてしまった方がよいのかと思わせてしまうということです。普通の自分にとってよいこと、自分が生きるために自分が生きやすいために必要なことを選ぶという意味での自己決定が可能であるためには、可能であるための状況・条件がなければならないのですが、それが決定的に不足してきたのが今までの私たちの社会であったのだと思うのです」(38)。

「尊厳死は、合理的なものであり、因習を排するもの、近代的なものであると言われることがある。例えば、さきの太田典礼という人物にとっては、宗教を排すること、葬式を排することは近代的なことであり、尊厳死もまたその線の上に並ぶことになる。ある状態の人間を生きていると考えるのは、またある状態の人間を生きたままにするのは「迷信」であるとする。この論理にはよくわからないところがある。もちろん、なにを死としどのように遇するのかは事実認識の問題ではないからである。しかし、「絶対的生命尊重」を宗教、盲信の側に置くのであれば、それを排するのは合理的であり、近代的であるということになる」(69)。これのあと、「他方で尊厳死は自然に結びつけられるものでもある」と続く。

「しかしまず、「延命」のための行ないにおいて、そうおおげさなことが行われているわけではない。ことを冷静に考えるなら、呼吸や循環の補助、動力の供給に関わって必要なものはなにほどのものでもない。他方、それ以上に高等な機能については人間によって製造される物体によっては代替できていないから、そもそもそれで人を生きさせることはできない。これだけのことしかこの世には起こっていない。そうして、せいぜい、普通に長生きする人ぐらいまで生きていられるようにしようというほどのことである」(185-186)。

[J0564/250220]