岩波新書、1995年。著者は、1984年に日本におけるインターネットの起源、JUNETを設立するなど、「インターネットの父」とも呼ばれている人物。とくに第4章あたりで当人の活動の話も出てくるが、他の章の、インターネットの原理的考察のところが示唆に満ちている。30年前の本だというのに。

序章 インターネットの力
第1章 インターネットの仕組み
第2章 インターネットの空間
第3章 メディアとしての可能性
第4章 インターネットの変遷
第5章 インターネットの重要課題

「インターネットの技術のおもしろいところは、「いいかげん」な技術の集合であることです。それが、なんとなく動く」(42)。

「一つひとつのネットワークというのは、クオリティは低くてもよい。あるときは、不通になってもかまわないという考え方をインターネットはもっています。設備コストはあまりかける必要がないので、どんどん新しい線を敷設しやすい。・・・・・・あるネットワークがエラーを起こしたときは、ほかを迂回して行けばよいのがインターネットです。個々では「信頼性が低い」ネットワークでも、多数が複雑に絡み合って全体のネットワークを集合したときにはたいへんな強靱さをもつわけです」(35)。「インターネットで大切なのは、コンピューターとコンピューターの間で、データが絶対に着かなくてもいい、でも「ほとんどは着く」ということなのです。そのくらいのレベルでとにかくつないでおいて、その上の信頼性がほしいときは、「ほとんど着く」のだから何度もやれば確実につくだろうという考え方です」(43)。技術的にもシンプルで、それが参入しやすさとなっていると。

「トップダウンで決められたストラクチャーではなくて、ラフなコンセンサス。みんながバラバラに生きていても、ゆるやかなコンセンサスがあればだいたいうまくいく、ということです。インターネットの設計思想はまさにこのとおりです。最後の詰めにくいところは詰めないで残しておいて、どんどん動かしていく。現にインターネットの上では、運用面でも制度面でもそのようなことがたくさん起こっています。こういうものだからこそ、インターネットは急速に世界に広がることができているのです」(44)。

 おもしろい。【問い】「ラフさ」という、こうしたインターネット技術の特性は、30年を経てどうなっているか。また、インターネットの急速な発展のあと、そのような「ラフさ」が改めて問題になるような場面が出てきてはいないか。

 電波を使ったコミュニケーション技術の限界から、電気的なケーブルを使ったイーサネットが開発されるくだり。「電波というのは、一つの周波数を使えば、そこで流れる内容はみんなに同時に聞こえます。同時に聞こえるのはまだよいのですが、何人かが同時にしゃべるとぶつかり合って聞こえなくなってしまうという短所があります。この意味では電波を使うコミュニケーションは、空気を用いた、人間の根本的なコミュニケーションと非常に似ているのです」(92)。

 これに対して、「インターネットは、コミュニケーションのうちの二種類の違った役割を、両方含んでいると言ってよいことがわかります。繰り返しになるようですが、「中間」の役割と、「両端の人間」の役割です」(96)。実は本文中におけるこの役割の説明はいまいち不明瞭なのだが、パラフレーズをすると、「声を拡大する」役割だけではなく、多数がそこに関わる状況で、話す相手の調整をするという役割を持つということ。ラジオやテレビが有するのが、たんに「声を拡大」する機能だとすれば、インターネットはその機能に加えて、多数の声が飛び交う中で、話をしたい相手を引き合わす機能をもっているというわけだ。

 インターネットと言語の関係の話題もおもしろい。(紹介省略)

 JUNETのWIDEというプロジェクトの話で、「東京大学という国家の資産と民間の企業が直接結ばれるということは、なかなか心理的にもむずかしい」というので、「スムーズに民間企業と国立大学との交差点になる」という理由から、岩波書店に場所を借りたのだという。岩波書店という歴史的に特別な存在が、新しいメディアへの橋渡しに一役買ったというエピソードとして、ちょっと興味深い(156)。

 本書が出版された1995年時点で、まだまだ発展していなかった技術は、スマホ、動画配信、AIあたり。しかし、「モーバイル・コンピューティング」の技術の可能性については、すでに本書中に触れられている。一方、動画配信については、インターネットに任せることに否定的な意見が書いてあって、本書の記述中、唯一的外れな見解になっているとおもったら、実はこの著者自身が、現在の動画配信技術の基礎をつくるのに大きな貢献をしていったらしい。本書のあと、当人がさらに切り拓いていったという・・・・・・。

[J0506/240831]