法蔵館文庫、2024年。原本の論文集は1983年の出版だが、原論文はもっと古く、中心となっている論文「来迎芸術論」は、1940~41年発表。

来迎芸術―五色の糸をたぐって(1950)
来迎芸術論(1940~41)
十界図考(1941)
地獄絵(1954)
浄土教の思潮と絵画―恵心・法然・親鸞の芸術観(1950)
解説 山折哲雄
大串純夫論文目録
解説「来迎芸術論」以後 須藤弘敏

有名な山越阿弥陀図などの来迎芸術とその成立を、迎講など、その「使い方」つまり宗教実践とともに論じる。

「迎講の創始者はやはり恵心と推定され、この迎講という来迎劇は彼が常行堂の念仏を一層浄土教化して行く間に、次第に成立したものと思われる」(42)。

恵心僧都源信の来迎信仰は、もちろん、平等院を代表とする藤原氏の信仰に強く影響している。

「彼〔恵心〕在世の頃に来迎図の作られていたことも確かである。しかしながら、彼の行った菩提講では『二十五三昧起請』などにも説く通り、弥陀の彫像に対しては往生の観行を修めるように勧めてはいるけれど、かかる画像を安置すべしと特に主張した確証はない。迎講に来迎図が用いられるようになり、浄土教的奇瑞を正面からこのように複雑な図様に描くようになったのは、やはりいくらか時代も下り、おそらくは、永観が『往生講式』に道場の西壁に弥陀迎接画像を安置せよと説いた頃、すなわち藤原後期以降のことではあるまいか」(79)。

月のイメージとの関係。「平安末期には月を極楽世界への思慕にこたえる浄土の主尊と見るのは既に一般的な常識になっていた」のであり(94)、「かくて筆者は、この種「山越阿弥陀」図の構図を、恵心の思想に基づいて叡山の満月を画因とし、藤原時代念仏信徒の美的信仰生活と自然愛好の精神とに彩られつつ成立した、日本的来迎図様と解釈する」(94)。なお、須藤弘敏さんの文庫版解説によれば、山を間において修行者を見守る図像自体は、大陸もあった可能性が高いという。

「十界図考」、西行の『聞書集』には地獄絵を詠んだ歌が10以上あるのだね。

「浄土教の思潮と絵画」、法然は浄土教芸術に強い関心を持っていて、これを信仰用の用具として礼拝することを認めていたが、次第に観念念仏に対して口称念仏の意義をより強調するようになり、浄土教芸術は二次的な意義を持つものとなっていった(198-199)。「平安時代には浄土教の絵画は主として礼拝の対象として、仏や菩薩そのものとして、制作されていたが、鎌倉時代には、やがて、教理解説の用具的役割を担わされる傾向を生じたのである」(200-201)。親鸞においては絵画はいっそう重要性を失うが、唯一、二河白道図だけは重要視した。

須藤弘敏さんによる文庫版解説には、近年発見された重要な阿弥陀来迎図が二点紹介されている。ひとつは、近江八幡市浄厳院蔵の阿弥陀聖衆来迎図で、11~12世紀の現存最古の掛幅装来迎図。もうひとつは、加古川市鶴林寺太子堂仏後壁に描かれ、赤外線撮影で確認された九品往生図で、こちらも平安時代にさかのぼる可能性があるという。

[J0488/240718]