Month: July 2020

船木享『死の病と生の哲学』

ちくま新書、2020年。がんになった哲学者の思索の記録、ということなのか。最初の方はおもしろく読み進んだが、なんだかどんどん心が離れていってしまった。あとがきによれば、最初は人生論を書こうとしたこともあったが、がんになってからがん療養という旅日記を書くにいたったとのこと。

こういう本が書きたくなる気持ちは分かるような気がして、自分もがんになったらそれこそブログか何かに、この本に似た、だが実際にははるかに拙劣な文章を書きだすかもしれないと思う。そうだとしても、一読(いや半読か一見くらいか)してみて、どうもこの本の立場が、日記なのか、体験記なのか、自己省察なのか、社会に向けて何かを書きのこそうとしているのか、中途半端なところが目についてしょうがない。『一年有半』よろしく、その中途半端さの裏に、病気体験の特権視を感じてしまう。

真に哲学的な問題ならば分かるが、多くの研究が存在する社会の問題を、病気になったからといって自分の経験と感覚(と手許の数冊の本)だけでとうとうと語ることに違和感を感じるのは、僕の発想が社会科学のスタイルに染まってしまっているからかもしれない。もちろん『ボディ・サイレント』流のフィールドワークというわけでもないし。どうせならもっと、ぎゅっとした箴言集みたいにしてもらったほうが素直に受けとれるかも?

[J0065/200730]

今中博之『アトリエ インカーブ物語』

河出文庫、2020年。2009年に出版された『観点変更』を文庫化とのこと。この方や「インカーブ」のこと、不勉強にして知らなかったけどこんな取り組みがあったとは。

第一章「一〇〇万人に一人」の、私は何者か
第二章「デザイン」とは何か
第三章「アカデミズム」の呪縛が解ける
第四章 なぜ、アトリエ インカーブは生まれたか
第五章 バイアスを解く
第六章 現代美術の超新星たち
第七章 アトリエ インカーブの展開
第八章「インカーブのようなところ」をつくる
第九章 社会性のある企て

著者の生い立ちから、知的に障害のあるアーティストが集うアトリエの設立、そのさらなる展開と語られていくのだが、この本全体を読みながら感じる時間の流れが、過去から未来に向かう物語式のものというより、フラッシュが断続的に焚かれたような印象であるのは、どういうわけだろう。その場面場面における考えの切り分け方が、截然としているからだろうか。

アール・ブリュットやアウトサイダー・アートの運動と近い領域で動きながら、それらの概念に著者自身が感じる違和感を隠さず、妥協をしない。「デザイナー」というアイデンティティについてもそうで、著者の考え方や言葉自体をどこまで肯定するかどうかは別として、大事な概念をどこまでも自分自身が納得のいく言葉として定義し、定義しなおし、それを行動の原理とする姿勢に学びたい。

著者の目ざすところ、「コンテンポラリー・アートの先にあるもの」は、アール・ブリュットやアウトサイダー・アートのように分かりやすい看板ではまだ表現できていない、あるいは表現すべきようなものではないようだ。たしかにこの本から教えられたのは、「あるのにないものとされてきた」アール・ブリュット的なものを「ある」状況にするには、できあがった作品の扱いや範疇分け以上に、アートを生み出す場所の整備が大事だということ。つまり、障がい者特有のアートというものはなく、またそう考える必要もないが、障がいをもつアーティストにあわせた制作環境は必要だということ。このことは、本書に描かれているインカーブの思想や実践の一部でしかないが、一読者としてそこが発見だった。

もうひとつ印象に残ったのは、作品販売の利益はすべて作者に帰属させることで、はなはだしい給与格差が生まれているという状況の生々しさ。いわばこれは「あえて」のことであるわけで、根本的な平等をめざす営みであるがゆえに生じる格差に、「普通なしあわせ」を確保しようとする著者の戦いの激しさを想像する。

[J0064/200730]

丸山ゴンザレス『世界の危険思想』

光文社新書、2019年。著者のことはまったく知らなかったが、たまたま手にとったらロマの話が書いてあるようだったので、買ってみたという一冊。基本は旅行体験記だからもちろん学術的だとか代表性どうのとはいえないのは当然だが、「なぜ人は人を殺すんだろう」という他者理解の問題を追究していて、想像外にたんなるエッセイ以上の内容だった。

第1章 人殺しの頭の中
第2章 命に値段はつけられる
第3章 スラムという現実
第4章 裏社会の掟
第5章 本当は危ないセックス
第6章 世界は麻薬でまわっている
第7章 なくならない非合法ビジネス
第8章 自分探しと自己実現の果て
最終章 危ない思想は毒か薬か

そう、それできっと本当にそうなんだろうなとおもうのは、この本が描いている、いわゆる「悪事」を働く動機の凡庸さ。たとえば起こしてしまった交通事故の保障の面倒くささや、さらには単なるお金の欲しさ――ただしそれは依頼を受けた第三者だからこそ、と著者は的確に指摘する――から犯す殺人。「まずは、詐欺やスリなどの個人的な犯罪活動をしている人たちの頭の中身だ。これは、「持っているやつからもらうことの罪悪感のなさ」に尽きるだろう」(124)。こうした「悪事」の動機の凡庸さと裏腹にある、スラム街の意外な平和に触れてもいる。

最後のところ、悪意の根幹とは。「あくまで私なりの結論だが、相手を「甘い」と思って「ナメる」ことである。これこそが、人類の持つ感情のなかで最悪に恐ろしい危険思想だと思っている」(171)。「相手に対する敬意のなさ」(171)。こうして、いともたやすく行われるえげつない行為という、荒木飛呂彦(先生が描いたところの)的状況になるのだと。

もうこれは社会学じゃないのという洞察もある。世界の裏社会にありがちなルールとして、縄張りの遵守、ボスへの忠誠=裏切りの禁止、アンチ警察という三点を挙げていて、なるほど。しかも、アンチ警察というルールに関して、「警察との力関係は裏社会の発展段階によって変化する」という(65)。民主主義の資本主義経済の国では、裏社会の成長が起き、警察との結びつきが強くなる。しかしやがて政府の力が強くなると、今の日本のように、裏社会が一斉に取り締まられる。他方、独裁国家や軍事国家では、警察や軍の力が強すぎて、裏社会的な組織は脆弱になりアンダーグラウンドなブローカー的な連中が大半になり、ギャングは警察の下働きの扱いになる、と。こんな分析だったら、W.ホワイト的なシカゴ学派とならべてみたくもなる。

[J0063/200729]