Author: Ryosuke

南川文里『アファーマティブ・アクション』

「平等への切り札か、逆差別か」、中公新書、2024年。アメリカにおけるアファーマティブ・アクションの歴史をたどる。

序章 なぜアファーマティブ・アクションが必要だったのか
第1章 いかに始まったのか―連邦政府による差別是正政策
第2章 それは「逆差別」なのか―転換点としてのバッキ裁判
第3章 反発はいかに広がったのか―「文化戦争」のなかの後退
第4章 いかに生き残ったのか―二一世紀の多様性革命
第5章 なぜ廃止されたのか―アジア系差別と多様性の限界
終章 どのように人種平等を追求するのか

「ニクソンは、マイノリティを対象とする大規模な貧困政策に不満を持つ「サイレント・マジョリティ」の白人中間層や労働者階級からの支持を集めて、大統領選挙に勝利した。貧困層の教育や職業訓練を充実させる政策が人件費などの多くの予算を必要としていた一方で、企業に「数値目標」達成のための自発的な努力を求めるアファーマティブ・アクションは、「貧困との闘い」とは異なり、大規模な予算措置を必要としない福祉政策であった」(51)。

「「逆差別」という語が広く用いられるきっかけは、ワシントン大学法科大学院を1971年に不合格になったユダヤ系の白人学生マルコ・デフニスが起こした裁判であった」(64)。

「〔アラン〕バッキは、1974年6月に、非白人のための「人種クオータ」を設置する特別措置入試は、白人に対する「人種差別」であるとして、自身の医科大学院への入学を求める訴えをカリフォルニア州裁判所に起こした」(67)。1978年にバッキが勝訴。「バッキ判決は、クオータの禁止、制度的人種主義に対する差別是正措置の終わり、そして「多様性の実現」という新たな目的の設定をもたらし、これ以後のアファーマティブ・アクションのあり方を変えた。たとえば、大学入試でのクオータの導入はほぼ不可能となり、「多様性の実現」のために人種を一要素として考慮する方法に限定された。バッキ判決がもたらしたのは、このような制度面・政策面の帰結だけではない。何よりもバッキ裁判は、公民権運動以降のアメリカにおける人種についての語り方を変えた。法廷やメディアにおける論争を通して、アファーマティブ・アクションをめぐる対立の構図が、はっきりと姿をあらわすようになった。賛成派や反対派は、それぞれの見解を表明し、それは「逆差別」対「差別是正」、「クオータ」対「目標」、「カラー・ブラインド」対「カラー・コンシャス」、「優遇」対「救済」、「機会の平等」対「結果の平等」などの価値観の対立として理解された」(88)。

ジェームズ・D・ハンターのいう「文化戦争」。「多文化主義が描くアメリカ像と、それを前提としたアファーマティブ・アクション政策が、このような人種間の「分断」を煽り、「文化戦争」をさらに深刻化させるという批判が相次いだ」(93)。

「21世紀の組織が追究すべき理想とされた多様性は、「反優遇」運動の攻勢に窮地に立たされたアファーマティブ・アクションを救った。2003年のグラッター判決は、AAを大学教育における多様性実現の手段として再生させた。ビジネスの現場でも、多様性は、雇用だけでなく企業組織のあり方を示す指針として再提起され、AAは多様性マネジメントの一部として再編された。・・・・・・多様性は、教育機関や組織に摩擦を持ち込むものというより、新たな創造性・革新性をもたらし、これまでにない高いパフォーマンスを可能にする原動力と見なされるようになった。このような多様性の効用を発揮するための手段として、人種を一要素として考慮するAAが正当化されたのである。しかし、このようなアファーマティブ・アクションの存続は、1960年代のAA導入時からの問題関心からの乖離を意味していた。「積極的差別是正措置」という訳語にも見られるように、当初の問題関心は、人種差別の是正、とくに制度的人種差別といわれる構造的に組み込まれた人種不平等の解体にあった。・・・・・・〔しかし〕アファーマティブ・アクションは、反人種主義への関心を離れ、大学教育や企業活動におけるパフォーマンスの最大化を目指す取り組みへと変貌した」(159)。

「2010年代以降、BLM運動の広がりとともに、制度的・体系的な人種主義への問題関心は高まっている。しかしながら、警察による暴力、刑事司法における不平等、貧困や失業、そして脆弱な医療体制などの問題と、エリート大学や大企業における多様性のためのAAとのあいだには、大きな隔たりがあるように思われる」(212)

[J0585/250603]

片山杜秀『皇国史観』

文春新書、2020年。

1 前期水戸学
2 後期水戸学
3 五箇条の御誓文
4 大日本帝国憲法
5 南北朝正閏問題
6 天皇機関説事件
7 平泉澄
8 柳田国男と折口信夫
9 網野善彦
10 平成から令和へ

水戸学以下の皇国史観・天皇観を、当時の政治の動きと結びつけながら論じる。ある程度長いスパンで解釈を成り立たせているところがポイントのひとつ。これだけ皇国史観を相対化しているのだから、右の人というわけではないのだろうけど、ひたすら天皇や天皇制を下げるタイプの人でもなく、歴史に対する好奇心が勝っている感じ。

伊藤博文による明治国家のデザインに関して。「明治憲法とセットでつくられた皇室典範は、天皇の存在をより具体的に縛りつけるものでした。そのポイントは二つ。まず天皇は終身、天皇であることを義務付けられたことです。自分の意志で即位、退位を決定する自由は奪われているのです。もちろん譲位も認められていません。第二に、皇位を継承するのは基本的に天皇の長男に限定されます。それが実現できないときも、継承順位はあらかじめ決められている。つまり天皇に後継者を指名する権利も認められていないのです。これらは敗戦後に新たに制定された皇室典範でも受け継がれ、平成の終わりに天皇の意思に基づく「生前退位」が実現するまで、私たちの「常識」となっていましたが、近代以前の天皇のありかたと比べると、きわめて大きな制限であることがわかります。つまり、誰が次の天皇にするかが、天皇ではなく、法律=国家によって決められるようになったのです」(93)。

「いつ誰を天皇にするかを決める〝人事権〟を認めてしまえば、それ自体が大きな権力となってしまいます。伊藤は、天皇自身さえも、そうした権力を持たないようにしたのです。ところが、こうした伊藤のデザインに最後まで抵抗したのが、ほかならぬ憲法の原案を起草した井上毅でした。......しかも厄介なことに、その井上が反対したのは、伊藤の憲法プランの核心ともいえる「輔弼」という概念だったのです。.....伊藤からすれば、井上は憲法制定における最大の功労者であると同時に、強硬な批判者でもあったのです」(94)。

天皇観と政治との関連が直接に扱われている平泉澄のところまでが主要部かな、と。柳田・折口・網野のところになると少しその問題を離れる印象。

[J0584/250512]

アマルティア・セン『人間の安全保障』

東郷えりか訳、集英社新書、2006年。講演録などのセレクション。

安全が脅かされる時代に(2003年)
人間の安全保障と基礎教育(2002年)
人間の安全保障、人間的発展、人権(2003年)
グローバル化をどう考えるか(2002年)
民主化が西洋化と同じではない理由(2003年)
インドと核爆弾(2000年)
人権を定義づける理論(2004年)
持続可能な発展―未来世代のために(2004年)

「〈人権〉の宣言は本質的には倫理上の表明であって、何よりも、一般に考えられているような法的な主張ではないのです。これについては、ジェレミー・ベンサムがそれを法的な主張とみなして、執拗に攻撃したために、かなりの混乱が引き起こされています」(138)。
「たとえば、拷問されない権利は、すべての人が拷問から解放される自由の重要性から生じるものです。しかし、そこにはさらに、「あらゆる人を拷問から解放するために、ほかの人は何ができるのかを考えなくてはならない」という主張も含まれています」(138)。
「〈人権を定義づける理論〉は、今後も検討や討論、論争を重ねる余地を残しうるものなのです。開かれた〈公共の論理〉という取り組みは、〈人権〉を理解することの中心です。・・・・・・議論の余地のある分野を許容することは、〈人権を定義づける理論〉としてなんら具合の悪い問題ではないのです」(140)。

[J0583/250511]