Author: Ryosuke

K.ローレンツ『鏡の背面』

副題「人間的認識の自然誌的考察」、谷口茂訳、ちくま学芸文庫、2017年。原著は1973年で、もともと邦訳は1986年に出ている。参照している文献からもそうだが、哲学的人間学の系譜上に置くこともできる。ただし、方法はあくまで自然科学的な進化論に依拠しようとする。そうした観点から、人間とその文化の生物進化上の画期性を論じる。「人間文化そのものに対する省察的自己探求は、従来われわれの惑星の上では一度も行われたことがない」(465)といい、進化心理学の先駆であるのみならず、僕からみれば、むしろその先を行っている。

認識論的前置き
第1章 認識過程としての生命
第2章 新たなシステム特性の生成
第3章 現実的存在の諸層
第4章 短期の情報獲得の諸過程
第5章 行動のテレオノミー的変異(報酬による学習=強化による条件づけは除く)
第6章 成功の応答と、報酬による訓練(強化による条件づけ)
第7章 概念的思考の基礎
第8章 人間の精神
第9章 生きたシステムとしての文化
第10章 文化の不変性を保持する諸要因
第11章 文化的不変性を解体しようとするいろいろなはたらき
第12章 シンボル構造と言語
第13章 文化発達の非計画性
第14章 認識作用としての振動
第15章 鏡の背面

 デカルト「われ思う、ゆえにわれ在り」に対する反駁。
「人間認識のはたらきも、系統発生の途上で生じた、種族維持に役だつその他のはたらきのように、すなわち、実在する外界と相互作用を行う、現実的な、自然的道程で生じた一システムの機能として研究されるべきである」(18);「認識する主体も認識される対象も同種の現実に当然帰属するという、われわれの考察の基礎となっている仮定」(19)
「こんにちもなお実在論者は外界だけを眺め、鏡が存在することを知らない。こんにちもなお観念論者は鏡のみに見入り、現実の外界に背を向けている。双方とも自分の注視の方向に阻害されて、鏡はそれ自身は映らない背面を、すなわち鏡とそれが映す現実の事物とを同じものとする一つの面をもっていることを知らない。つまり、現実の世界を認識するはたらきをもつ生理的装置は、現実の世界に劣らず現実的なものである。この本はこの鏡の背面を扱うものである」(48-49)

 種族維持的合目的性またはテレオノミーという概念。
 情報理論からの説明。
「適応とは生物とその環境世界との間に存在する転移情報の増大であり、この増大は生物の内部における諸プロセスによって起こされるのであって、そのさい環境世界には目だった変化はない」(57)
「休むことなく実験を行ない、その成果を現実と対決させ、そして適したものを保持するゲノムの方法は、ただ次の一点のみ――そしてこれとてもけっしてそんなに本質的なものではない――人間が科学的に認識しようと努力するさいに用いる方法と相違するだけである。つまりゲノムは成功からのみ学ぶが、人間は誤りからも学ぶという点である」(58)
 ローレンツにとって、ゲノムは生物が情報を保持するもっとも重要な媒体であるが、しかし、ゲノムだけがそうなのではない。

「知識獲得のはたらきのなかには、まったく異なった種類のものもある。適応はエネルギーの取得と利用とに役だつ身体的諸構造を作りだしたが、それと同じように、情報、つまり知識、しかも生物の世界のなかに一時的に生じ即座に考慮を要する状況についての知識、の獲得と利用のためにはたらく構造をも作りだした。これらの装置の機能にもとづく行動の特徴は、それが環境世界の特定の状況への応答であるということである」(61-62)
「この〔情報獲得の〕構造のなかに組みこまれている計算装置は、必然的に《仮説》を含んでいるのだけれども、それらにまさに原則のようにしがみついている。・・・・・・すでになしとげられた適応過程が《原則的に》定着する傾向は、われわれの認識行為に仮説を押しつけている。いいかえれば、われわれは気づかないうちに、仮説を認識として受けとっている。われわれは、そのような生得的な仮説を潜めている前提や想定によって認識行為を行なうことなしには何ごとも経験できないし、見ることも考えることもできない。まさにこれらの仮説はわれわれの《世界像装置》のなかに組みこまれているのだ!」(64)

「生物が無方向のただ偶然にのみ条件づけられた変化の奴隷であり、進化が不適者の淘汰によってのみ生ずるというならば、それは確かに一面においては争う余地なく正しい原則ではあるが、しかし誤解させる主張でもある。次のようにいう方が、生物の自然のなかでの大いなる生成の現実に接近することができる。すなわち生命は、エネルギーの《資本》の獲得と知識の財産の獲得とを同時にめざし、そのさい一方の所有が他方の獲得を促進するような企てをきわめて活発に営んでいるのだ、と。この両者の相乗的相互作用的に連結された機能回路の恐るべき効果こそ、生命というものが無慈悲な無機物の世界の強大さに対して自己主張できることの、同様にまた生命が事情しだいでは《はびこる》傾向があることの前提であり、説明であるのだ。現代の大企業、たとえば大化学コンツェルンが、新たな発見によって新たな獲得の可能性を開発するために、純益の少なからざる部分を実験室に投資する巧妙なやり方は、すべての生きているシステムのなかで行われている出来事の目に見えるモデルであるだけではなく、まさに好例なのである」(66)
「生命は情報獲得、すなわち認識的過程であると同時に経済的企業である――私は商業的企業とさえいいたいぐらいだ」(67)

「生物は原理的に説明可能であるというこの主張が通用するのは、やはりその生物のからだの現在の構造を事実として受けとる、いいかえればその構造の歴史的生成に関心をもたないような態度をとるときだけである」(80);「高等生物は、とくにミヒャエル・ポラニイ〔マイケル・ポランニーか〕が強調したように、より単純なその祖先に《還元》されうるものではなく、そして生きているシステムは、無機物とそのなかで起こっている過程には、なおさら《還元》されない」(81)

 ひとつの側面についてパラフレーズないし解釈を試みるなら、情報獲得を目標のひとつとしている生物というのもの、とりわけ高等生物は、その情報を自分の固有な構造のもとで認知し、獲得する。つまり、情報が得られる地平としての環境は、その生物的構造にしたがって生物ごとに異なっており(いわゆる環世界だね)、この意味で、すべての生物が同一条件の下で情報獲得の営みをするのではない。そうすると、DNAを用いた情報獲得の結果としての進化は、生物一般の環境を想定するだけでは理解できないことになる。生物の進化は、一般的な条件としての環境と、生物それぞれに異なる、なんなら主観的と比喩的に述べてもよいような環世界としての環境と、二重のレイヤーから理解される必要がある。

「私はむしろこういいたい。高い統合水準をもつシステムは低い統合水準をもつシステムから推論されえない、後者がいかに精密に知られようとも、と。高位システムが低位システムから生じたこと、前者は後者から構築され、こんにちもなお後者を構成要素としていることをわれわれは確信をもって知っている。また、高等生物はどのような前段階から生じたかについても非常に精確に知っている。しかしすべての構築行為は、系統発生のなかで歴史的一回性をもって起こった《電光》によって構成されたのであり、この出来事はつねに偶然的なものの性格を、もしそういいたければ、発明の性格をになっていた」(82)
 ここは二重丸、三重丸のチェック。ある種の単純すぎる生物学的還元に対する論駁。システム論な把握と言ってもよい。

「たとえば次のようにいうことができる。すべての生命現象は化学的かつ物理的現象であり、われわれの体験のすべての主観的過程は有機的・生理的過程であり、そしてそれゆえにまた化学的・物理的な過程であり、最後に人間のすべては精神的生活は、同じ意味において、すべてこれらの基礎的な層のなかで行なわれている現象なのだ、と。次のようにいうこともまた同様に正しく正当である。すなわち、生命現象は《固有》のものである。つまり、生命現象だけが所有し、生命現象だけに独特であり、生命現象が他のすべての化学的=物理的現象よりも有利なかたちでもっている存在原理および現象原理に関して、生命現象は他の化学的=物理的現象とは完全に異なっているのだ、と。また、体験が伴う神経過程は、非霊魂的な神経=生理的プロセスとはまったく違ったものなのであり、そして人間は、精神を賦与された生物として、文化に規定された超個人的な知識、能力、意欲をもつという点で、近縁の動物たちとは本質的に異なっているのだ、と。しかしこの二つのいい方の対立は見せかけのものにすぎない。・・・・・・すなわち、層もしくは統合水準の一方的侵入という現象に対しては、矛盾的対立の思考形式は役にたたないという事実がこれである」(93-94)
 この両面を把握することが大事と。

「〔章のまとめ。その一は略〕その二。一つの新しい複雑な機能が、すでに存在したより単純な種々の機能の統合によって、つねにというわけではないがしばしば発生する。これらの下位の機能は、それまでは単独で、またのちに生じる機能とは無関係にはたらく能力をもつものであったが、統合ののちも消滅したり重要性を失ったりするどころではなく、新たな統一体の不可欠の構成要素としてはたらき続ける。その三。たがいに無関係にはたらいている個々のサブシステムや下位の機構のなかに、上位の統合水準においてはじめて現われるシステム特性を探すのは、まったくのナンセンスであるということ」(96)

「この思考モデルは、《生得(氏)》と《修得(育ち)》という分離した概念形成がいかに不適切かをよく説明している。すべての学習能力は開かれたプログラムにもとづいているが、これはいわゆる生得的行動様式よりも一層多く、ゲノムのなかに固定された情報を前提としているのだ」(136)
「われわれが知っている世界のどこを探しても、高等生物の行動の基礎をなす中枢神経的機構よりも複雑なシステムは存在しない。だからいろいろな適応的変異能力をまさにこの組織で作り出したということは、有機的生成の努力の驚くべき賜物なのだ。・・・・・・人間の精神史のなかで、人間はあらゆる個人的経験以前においては白紙状態、《タブラ・ラサ》であるといった経験主義者の意見よりも大きな誤謬は、ほとんど見当たらない」(138)

「すべての学習は、その機能が行動であるところの生理的メカニズムのテレオノミー的変異である」(165)

「中枢神経系が一定の高さの分化水準に達しているすべての動物、つまり頭足類、カニ類、クモ類、昆虫そして人間を含めての脊椎動物には、そのはたらきの能力の点でこれまで述べてきたすべての認識的メカニズムを凌駕している知識獲得の能力、すなわちことばの狭い意味における学習能力が見いだされる」(169)
「新たなフィードバックによって、たった一回の経過で個体に多くの永続的な情報ももたらす認識的過程が生じる。その情報量は、ゲノムの方法が最も好都合なときでも一世代で残しうるよりも多い。いや、この過程は少なくともゲノムの二倍の能力をもつ。というのは、ゲノムのように成功によって情報を獲得できるのはもちろんだが、ゲノムと違って失敗からも獲得することができるからである。またこの学習過程は、ゲノムが行っているような、重要であろうとなかろうとすべての可能な要因によって盲滅法に《出たとこ勝負をする》やり方はとらず、よくテストされた生得的な作業仮説にもとづいて、つまり、第四章で詳説した、一時的情報を獲得するメカニズムという形式ですべての高等動物の行動様式のなかにしっかりと組みこまれているメカニズムに依拠して、ことを処理する。試行錯誤によって変異をこうむる可能性をもつ行動は、だから先天的により大きな成功の確率を約束されている」(172)

「もう数年前に私は、知覚の抽象作用、空間の中枢的表象を含めての空間定位、そして好奇心行動の三つが、人間の成立のためにどんなに大きな意味をもったかについてはっきりした意見を述べた。・・・・・・ただ私がそれらの各論を書いたとき、当時まだ完全には把握していなかったことがある。それは、概念的思考というはたらきを行なう無比の全体的システム――これの成立こそいわゆる《人類の誕生》を意味する――を創造するためには、これら三つの認識的能力が三つ一緒だけでなく、少なくともあと二つの能力が加わって一つに統合されなければならないということである」(225)。すなわち、随意運動と、模倣。

探索行動としての好奇心行動の意義。
「高等な哺乳動物や鳥類の遊びを見れば、種々雑多な、すばやく次から次に入れ替わって続く本能運動の動機づけは、彼らが危急の場合にエネルギーの供給をあおぐ衝動源泉からはけっして生じえないことがすぐに分かる」(284)。「遊びにおいて現われる遺伝的協調は、種族維持にかかわる場面でそれを活動させる動機づけの源泉とは別な源泉からエネルギーを供給されるというモニカ・マイヤー=ホルツアップフェルの推論は、私見によれば信服するに足るものである」(284)。「探索行為は、その特殊な≪好奇心気分≫とは別な気分が活性化されるとただちに消滅する」(286-287)。「探索行動は、≪真の≫動機づけが沸きたつとただちに消滅する。それはただ≪緊張の解けた場≫においてのみ進行する」(318)。「典型的な好奇心動物は、≪世界へ開かれた性質≫という特性をもっている。これはアルノルト・ゲーレンが人間を動物から区別するためにあげた特性だった。しかし、確かにかなりわずかな程度でしかなく、また本章で提示した概念的思考の他の諸前提をもって上位システムへ統合されているのではないが、好奇心動物も原理的には人間と同じかたちでこれを所有している」(289)。「探索行動の種族維持的価値は、事物に即した知識の習得にある」(318)。

 伝統について。
「個体によって習得された知識が他の個体へ、そしてある世代から次に世代へと受け継がれる過程を、われわれは伝統と名づける」(305)。動物では限定的。「すべての動物的伝統のこのように対象に束縛された性質は、たぶん動物的伝統がけっして目だつかたちでは超個体的知識の積み重ねへ発展していかなかったことの理由だろう」(312)。「概念的思考と、それと同時に登場することばこそはじめて伝統を対象から独立したものにするが、それはこの両者が、事実と関連とを対象の具体的な現存なしにさらに伝達する可能性を与える自由なシンボルを作りだすからである」(313)。

 ふたつの誤った人間学的立場。
 その一つ、還元主義的観察方法。「一方の≪還元主義的≫観察方法を取る人々は、進化過程の連続性というフィクションを〔ママ〕固執し、進化過程はただ段階的な差異を生みだしうるにすぎないと信じている。われわれが知っているように、すべての進化の歩みは本質的な差異を創造するのであって、ただたんに段階的なそれを生みだすだけではない」(322-323)。つまり、動物の人間との本質的相違がありうるということ。
 もうひとつのもの、分離指向的な類型学的対比。「他方、有機的生成に対する無理解と、有機的生成から生じた、生きている存在の諸層―これらはいつも本質的に異なるものであるが、たえずたがいに依存しあっている―への無理解」(323)。「人間と動物との共通性から視線をそらす〔プレスナーら〕これらの哲学的人間学者たち」(325)。

 これら二つの立場に対して。「重要なのは、人間とその他のすべての生物と間のカテゴリー的な相違性、ニコライ・ハルトマンのいわゆる≪間隙≫、すなわち、人間の精神の電光によって生じた、現実的な存在の二つの段階の間のあの大いなる懸隔である」(325)。
 ローレンツは、しばしば、人間の精神の突然の「電光」という言い方をする。これは、カテゴリー的≪分断線≫の前提とは異なるといい、ハルトマン自身もその誤謬に陥っているという。ローレンツが重要視するのもの、「その分断線は、われわれの理解力が絶対に近づきえない隔壁であって、われわれ自身の存在の疑うべからざる一体性の真ん中を貫いて、われわれの主観的体験の諸過程を、われわれの体内で起こっている客観的・生理学的に理解可能な現象から分離している」(325)。
 「たとえわれわれの知識がどれだけ増大しても、身-心-問題の解決に近づくことはないだろう。体験の自律性は原則的に化学的・物理的法則によっても、神経生理的機構の非常に複雑な構造によっても解明されえない」(328)。ハルトマンが並置していた分断線のうち、「他の二つの大きな裂け目は原理的に架橋されうる。つまり、無機物から有機物へ、動物から人間へ通じている進化過程は、自然科学の問題設定と方法論にとって同じやり方で近づきうる対象である」(329)。
 このへんのくだりは、ローレンツの立場をもっともよく示している。

 「生命を定義しようと欲するならば、情報の獲得と貯蔵というはたらきと、この両方を行なう構造的メカニズムを必ず定義のなかに採り入れるだろう。しかしこの定義のなかに人間に独特の特性とはたらきが包含されているわけではない。この生命の定義には一つの本質的な部分が、つまり人間的生命、精神的生命が意味するところのすべてが欠けている。だから人間の精神的生命は一つの新たな種類の生命であるといっても、けっして誇張ではない。われわれはいまやこの生命の特殊性に取り組まなければならない」(330-331)。

 人間における獲得性質の遺伝。「事物から独立した伝統の成立は、すべて獲得されたものを潜在的に遺伝(相続)可能なものにする」(331)。「蓄積しうる伝統は、獲得性質の遺伝以上でも以下でもない」(332)。

「知識のすばやい普及、社会の全構成員の意見の同化、とりわけ一定の社会的・倫理的根本態度が伝統として確定することは、個々人の新種の共同体を創造した。これはいままでになかった新種の生きたシステムであり、その本質的システム特性こそ、われわれが精神的生命と呼ぶ新種の生命である。このような超個人的システムの個別具体的実現を、われわれは文化と名づける。文化的生命と精神的生命を区別しようとするのは無意味なことである」(334)。

 この周辺について、いったんパラフレーズを試みる。ローレンツは人間精神・人間文化を「精神的生命」と呼ぶ新種の生命として捉える。あるいは「生きたシステム」として捉える。精神的生命の出現は、ローレンツにとって、生命の誕生以上の跳躍的出来事である。生命の誕生は、生物学的進化の連続上から理解できる。さらに、脳神経の発達といった器官の発達もまた、生物学的進化の連続上にある。ローレンツは、こうした器官自体の発達と、人間精神の構造とを区別し、後者の登場を解明しえないものだとしている。
 ローレンツのこうした立場は、人間精神を漸進的な生物学的進化に還元してしまう立場とは異なると同時に、人間と動物とを最初から別種のものと置く立場とも異なるという。もっとも、後者の立場と紛れやすい要素を含むことはまちがいなく、また、精神的生命を支える主観的体験の諸過程を「解明されえない」としてしまう点には、異論もありうるだろう。ちょっとこれを書きながら思ったが、ローレンツの議論における個人の意識過程と人間文化との区別や関係は、また整理の必要があるかもしれない。

「多くの人類学者がこんにちもなおかたくなに擁護している理論、すなわち人間のすべての社会的・意思疎通的行動はもっぱら文化的伝統によって規定されているという考えは壊滅する」(351)
 文化決定論の否定、チョムスキーにも言及。ヘレン・ケラーの逸話
 「アルノルト・ゲーレンがいうように、人間は≪生まれつき文化生物≫である。つまり人間の自然的・遺伝的基礎は、それの諸構造の多くが機能を発揮するためには文化的伝統を必要とするようなふうに作られている。一方これらの構造がはたらいてはじめて、伝統と文化は可能となるのである。累積してゆく文化的伝統とともにはじめて生じた肥大した大脳半球は、伝統なしには機能しないだろう。大脳半球の最も重要な部分である言語領にも、同じことがあてはまる。その機能を欠いては、論理的・概念的思考はまったく存在しないだろう。一方概念的思考は、もし文化的伝統が何千年にも及ぶ文化史のなかで成長してきた言語の語彙を与えてくれなかったら、機能を発揮することができないだろう」(364)
 ローレンツはそのように表現していないが、文化と脳とは共進化してきたと表現することもできそうである。(というか、生物の進化一般が、DNAなどの獲得情報と生物有機体器官の共進化と捉えられている、と言えるような言えないような。)

「彼〔幼少期からの人間〕は、周知の伝説によればアダムがしたということになっているようには、これらの言語的シンボルを自分で見つけようとはせず、自分はそれをある伝統授与者から学習しなければならないということを生得的に《知っている》」(441)

「すべての構造の支持的機能は、堅固化、すなわち自由度の喪失によって購われるほかはない」(377)
「ある種のもつ不変の諸構造は、その種のもつ非適応性をきわだたせ、そして同時に知識に対して独特の関係をもつ。一面において、適応した構造はすべて知識を含んでいる。つまり知識は、ゲノムの鎖状分子のなかであれ、脳の神経節細胞内であれ、またある教科書の活字のなかであれ、適応した構造のなかにしか確保されえないのである。構造とは完了した状態における非適応性にほかならない」(377)。

「文化人間の精神の本質を構成する知識集積のはたらきが行われるためには、いうまでもなく永続する諸構造が成立していなければならない。これらの構造の遺伝能力を何世代にもわたって確保し、そして一定量の知識がかなり長期間蓄積されているためには、これらの構造が比較的高度の不変性をもっている必要がある。すべての習俗や習慣、耕作や技術の方法、言語の文法や語彙、そして最後にいわゆる学問の《自覚的な》知識のなかに保持されているある文化の全知識は、蓄積されて譲渡されうるためには、かなりの程度に形態が安定している構造のなかへと注ぎ込まれていなければならない」(378)。「文化的知識の不変性と可変性とのバランスがとれる必要がある」(379)。

 こうして、さまざまな人間的事象が生物学的・進化論的見地から解釈される。たとえば・・・
・畏敬、ないし尊敬の感情の進化論的意味(383)
・儀式や儀式化。「儀式化(Ritualisation)」:「系統発生的に生じた儀式と文化史的に生じた儀式は四つの本質的なはたらきを共有している」(399)。①伝達、②行動様式を特定の通路へと導く、③特定の行動の動機づけ、④サブ文化の混合の阻止。加えて、文化史的儀式化にのみみられる、自由なシンボルの創造(400)。
・文化的儀式化の効果としての羞恥(414)
・《機能亢進的》気分と《機能不全的》気分との交代(452)

「探索と遊びへの人間の欲求は他の高等動物とは違って性的に成熟したあとでもなくならないが、これは、人間という種の特徴を表わす特殊性である。この特殊性こそ、自己探索への傾向と協同して、人間がある伝統の強制に本当の意味で全面的に服することを構造的に不可能にしている原因なのだ」(424)。

[J0666/260527]

森崎和江『まっくら』

副題「女坑夫からの聞き書き」、岩波文庫、2021年。原著は1961年刊。
女性が締め出される以前、筑豊の炭鉱で働いていた女性坑夫たちの聞き書き集。
女性史、さらには生活史といったジャンルが確立する前の、方法論に頼らない、ふつふつとした熱いものの感触。そうした諸ジャンルの原点に置かれるべき仕事。

無音の洞
流浪する母系
棄郷
灯をもつ亡霊
のしかかる娘たち
セナの神さま
ヤマばばあ
赤不浄
共有
地表へ追われる
坑底の乳
付録 聞き書きの記憶の中を流れるもの

死の危険と隣あわせの厳しい肉体労働という即物的な世界に、神仏への信仰の話が入ってくる。しかもそこには、信心に頼る心と、それに対して自らだけを恃む姿勢とが、入り混じる。両者のあいだに、むしろそれは当然というように亡霊の話も現れる。

傾聴に徹する生活史の研究者というのはちがって、話り手のたたずまいを描く森崎の忌憚のない筆致もたいへん印象的。張りつめた緊張感は、『あいたくてききたくて旅に出る』における小野和子さんの昔話採集を連想させる。

[J0665/260527]

W.クラーク『死はなぜ進化したか』

ウィリアム・R・クラーク、副題「人の死と生命科学」、岡田益吉訳、三田出版会、1997年。原著 Sex & The Origin of Death は、1996年刊。

著者は免疫学の研究者らしいが、免疫学や細胞学の話だけにとどまらず、ノンフィクション作品の要素も加えながら、死について考察する。似た主題を扱った高木由臣『有性生殖論』(NHK出版、2014年)に比べ、バランス感覚があってこなれている。

1章 細胞の死
2章 死のもう一つの顔
3章 性、DNAの隔離、そして細胞の死
4章 セックスから死へ―老化の不思議
5章 細胞の上下関係―脳死とは何か
6章 生命の深淵を覗く―ウイルス、胞子、生命の意味
7章 終幕

本書を読むに、やはり、細胞レベルの死と、個体レベルの死との関係は問題である。前述の高木本はあっさりそれを同一視するが、それでは現実の死の問題を考えるには不足である。細胞レベルの死/生物個体レベルの死/個人意識レベルの死/DNAレベルの死(断絶)・・・・・・。

アポトーシスとの関連から、キラーT細胞が標的細胞を「破壊する」しかたについて。「キラーT細胞により死の運命を選択させられた細胞は、殺されたのではなく自殺したのである。キラーT細胞が特別の武器を隠し持っているに違いないと、それを探し求めていた歳月は、結局は無駄だったのである。キラーT細胞が持っていたのは、細胞を破壊する武器ではなく、特別の保安暗号の知識である。細胞は自分自身のなんかに自己破壊のプログラムを内蔵している。これは決して一部の異質な細胞のことではなく、生体内のすべての細胞に当てはまるのである」(59)。で、キラーT細胞は、そのプログラムを発動させるのであると。

たとえば、もっとも小型の多細胞動物であるC・エレガンスの受精・細胞分裂の過程でも、ヒトの細胞の自己破壊と同じ現象が観察される。「細胞の自殺は、何十億年という生物の歴史のなかで、完全に保存されてきた古い儀式であるらしい」(65)。

「セックスは、同じ種に属するに個体の間で遺伝情報(DNA)の一部、またはすべての交換混合することだけを指す。生殖は、ある細胞のコピーを作って数を増やすことである。したがって、「有性生殖」は遺伝情報の交換と細胞増殖、この二つの組み合わせを意味するのである」(81)。

「セックスによる生殖は疑問の余地なく遺伝的多様性を推進し、それによって種は環境の変化に適応することができるのである。・・・・・・セックスによる生殖のもう一つの重要な利点は、遺伝子の誤りを修理したり、取り除いたりすることが可能なことである」(83)。

「ゾウリムシやその仲間たちのような原生生物が出現する以前は、体細胞のDNAは、すなわち生殖生物のDNAであった。つまり、多細胞動物出現以前は体細胞と生殖細胞とは同一であった。われわれをも含めて、動物に見られる半数体の生殖細胞はある意味では小核の後継者であり、また地球創世期のモネラや無性的に増殖していた現生生物の直系の子孫であるということもできるだろう。つまり生物の細胞のなかで生殖細胞だけが不死という特質を維持しているのである。どんな生物でもその生活のサイクルのなかのある時点で、生殖細胞はその個体を離れて他の個体由来の生殖細胞と癒合すれば、細胞分裂を続けてたくさんの子孫の細胞を作ることができる。これらの細胞は新しい多細胞生物個体を作りあげ、生殖細胞さえも新生する。生殖細胞が新たな個体を作り始めたとき、ちょうどゾウリムシの接合後と同じように、老化の時計はリセットされる。生殖細胞が抜け出したあとの個体の細胞、体細胞は死刑判決をうけているのと同じで、プログラムに従って老化し、死んでしまう。生殖細胞の生存を見届けた後は、体細胞もその過剰のDNAももはや必要ないのである」(94)。
 多細胞生物における、不死である生殖細胞と死すべき体細胞との分化、という話。ただし、ここでいう「生殖細胞の不死」の意味するところと、体細胞が不死生を失って必然的に死がプログラムされることの進化論上の理由は、いまいちよくわからない。前者は、DNA情報の継続という意味での不死ということか?「細胞それ自体の生/死」と「DNA情報の連鎖としての生/死」についても区別が必要なのかも知れない。

「摩耗を考えた場合に最も心配な分子は、すべての遺伝的制御の中心、DNAである。DNAは常に突然変異に脅かされている。・・・・・・生殖細胞の減数分裂中の半数体DNAは、影響を受けやすいが修理もしやすい。その上生殖細胞には修理のための機材、すなわちDNA修復酵素が文字通り満載されている。体細胞にはこれらの酵素の供給がずっと少なく、老化した体細胞では特に減少する、そのために体細胞はDNAの修理ははるかに困難である。この結果として、体細胞には訂正されない突然変異が徐々に蓄積されてくる」(100-101)。「繊毛虫はセックスができないと老化していくが、その原因が主として大核DNAへの突然変異の蓄積であることを示す証拠はたくさんある」(101)。「セックスを行う原生生物では、遺伝的に決まっている寿命があり、その寿命は各生物種固有のもので、細胞外の条件に影響されないことは明らかである」(101)。

つまり、体細胞は、遺伝子修復をあきらめた細胞ということか。一方、生殖細胞が不死というとき、それが遺伝子修復機能を備えていることを前提しているということなのか。また、突然変異の蓄積による「老化」がしかたないことと、死が「プログラム」されていることとの関連もまだ明瞭ではない。がん細胞のように、老化≒異常化をふせぐために死がプログラムされている?摩耗の末の死と、予定された死との関係をまだ理解できていない。

「ヒトの細胞とバクテリアのような無性生殖のみをする単細胞原核生物とは、数週間培養を続けると初めてはっきりと違うことがわかってくる。バクテリアは栄養分の補給を続け、余分なバクテリアをときどき吸い取って過度の混雑を防いでやれば、分裂速度は決して変化しない。しかし、ヒトの線維芽細胞はいかなる手段を講じても、つまり、どんなにしばしば培養液を交換し、栄養を与えてやっても、結局は増殖が衰えてしまう」(104)。

「真核原生生物での教訓は体(非生殖)DNAの修復は厄介で高くつき、結局やる価値のないものであるということであった。・・・・・・古い体DNAを破壊して、もう一回スタートし直す方がずっと簡単である。体DNAが生殖DNAと別の細胞に入っている場合には、その細胞が死ねばよいのである。不幸なことに、その細胞というがわれわれ自身なのである」(107)。

「生殖細胞は無性的に増殖する単細胞のごとく、また原生生物の小核と同じように、潜在的には不死である。不死でいられる理由の一つは、生殖細胞が有害な突然変異を自分自身のDNAから一掃することができることである」(109)。

「初期胚から分離した細胞であるES細胞は全能性を持ち、不死であると結論することができる。しかし、発生後期にある胚からとった細胞ではこうはいかない。ES細胞となりうる細胞の存在する発生時期(杯盤胞期)を過ぎると、すべての細胞は全能性を失い、そして、同時に不死でもなくなることが明らかにされている。この時期以降、細胞は老化を開始する」(112)〔*これ、山中さんが更新したんだっけ?〕。なお、胚の発生が進行して、一部の細胞が生殖細胞に分化すると、その細胞は「不死の能力を再び獲得する」(118)。

「必ず死ぬという運命は、遺伝的に制御されている特別なプログラムそのものであるという認識が重要なのである。進化という観点からは、体細胞の老化と死、その結果としての体細胞DNAの破壊という一連の過程は、「機能獲得」の現象である。すなわち生命のこのような特性は最初の生命が誕生してから10億年の間は存在しなかったのである。そして、ひとたび老化とプログラム死が出現すると、その有利さのゆえに、これらの現象や、それを引き起こす遺伝子群は生物に「定着」してしまった。・・・・・・それでは、死のプログラムは誰にとって有利なのだろうか?加齢と死から誰が、あるいは何が利益を得るのだろうか?唯一の可能な答えであり、考えうる唯一の受益者は、生殖細胞を介して前世代から受け渡され、次世代に手渡されるDNAである」(112-113)。

また根本的な話になるが、DNAの存続が目的だとして、しかし、DNAは元の情報そのまま存続するのではない。突然変異もあれば、セックスによる交換混合もあり、その機構は推薦されてさえいる。遺伝子情報の完全な維持をめざすのであれば、無性生殖という手段をとることになる。つまり、多細胞生物≒有性生殖において、遺伝子情報の完全な維持は絶対の目的とされているとは言えないはずだ。だとすれば、どこまでもとの生殖細胞は「自己保存」を目的としていると言いうるのだろうか。DNAの自己とは何か。

再掲、胚の発生が進行して、一部の細胞が生殖細胞に分化すると、その細胞は「不死の能力を再び獲得する」(118)。「生殖細胞や初期胚の細胞に見られるような全開のゲノムでは、死を抑制する遺伝子群も目一杯に開いて働いており、細胞は無制限に増殖し、老化は阻止されている。この遺伝子群が働いている限り老化のプログラムは実行されないので、その細胞は実際上不死である」(120)。
つまり、細胞は死すべきようにプログラムされているが、そのプログラムを止めるプログラムも存在しており、それが生殖細胞を不死にしていると。

途中、死を考えるうえで、人間の脳死の問題が取りあげられ、脳/神経/それ以外に境界線を引く見方が、生物学的な根拠をもつものではなく、倫理的・哲学的な線引きであることが述べられる。

さらに、長期の冬眠のような、仮死状態としての潜在生活のことも取りあげる。例とされるのは、研究の進んでいるバクテリアのバチルス属の胞子形成過程である。最後には、ウイルスが考察の対象となる。「ウイルス自身は、生きている細胞の特徴をまったく持っていない。潜在生活と同じように代謝活性を欠くばかりでなく、細胞に由来したと認定できるいかなる構造上の特徴もそなえてない」(175)。

[J0664/260522]