Month: August 2024

村井純『インターネット』

岩波新書、1995年。著者は、1984年に日本におけるインターネットの起源、JUNETを設立するなど、「インターネットの父」とも呼ばれている人物。とくに第4章あたりで当人の活動の話も出てくるが、他の章の、インターネットの原理的考察のところが示唆に満ちている。30年前の本だというのに。

序章 インターネットの力
第1章 インターネットの仕組み
第2章 インターネットの空間
第3章 メディアとしての可能性
第4章 インターネットの変遷
第5章 インターネットの重要課題

「インターネットの技術のおもしろいところは、「いいかげん」な技術の集合であることです。それが、なんとなく動く」(42)。

「一つひとつのネットワークというのは、クオリティは低くてもよい。あるときは、不通になってもかまわないという考え方をインターネットはもっています。設備コストはあまりかける必要がないので、どんどん新しい線を敷設しやすい。・・・・・・あるネットワークがエラーを起こしたときは、ほかを迂回して行けばよいのがインターネットです。個々では「信頼性が低い」ネットワークでも、多数が複雑に絡み合って全体のネットワークを集合したときにはたいへんな強靱さをもつわけです」(35)。「インターネットで大切なのは、コンピューターとコンピューターの間で、データが絶対に着かなくてもいい、でも「ほとんどは着く」ということなのです。そのくらいのレベルでとにかくつないでおいて、その上の信頼性がほしいときは、「ほとんど着く」のだから何度もやれば確実につくだろうという考え方です」(43)。技術的にもシンプルで、それが参入しやすさとなっていると。

「トップダウンで決められたストラクチャーではなくて、ラフなコンセンサス。みんながバラバラに生きていても、ゆるやかなコンセンサスがあればだいたいうまくいく、ということです。インターネットの設計思想はまさにこのとおりです。最後の詰めにくいところは詰めないで残しておいて、どんどん動かしていく。現にインターネットの上では、運用面でも制度面でもそのようなことがたくさん起こっています。こういうものだからこそ、インターネットは急速に世界に広がることができているのです」(44)。

 おもしろい。【問い】「ラフさ」という、こうしたインターネット技術の特性は、30年を経てどうなっているか。また、インターネットの急速な発展のあと、そのような「ラフさ」が改めて問題になるような場面が出てきてはいないか。

 電波を使ったコミュニケーション技術の限界から、電気的なケーブルを使ったイーサネットが開発されるくだり。「電波というのは、一つの周波数を使えば、そこで流れる内容はみんなに同時に聞こえます。同時に聞こえるのはまだよいのですが、何人かが同時にしゃべるとぶつかり合って聞こえなくなってしまうという短所があります。この意味では電波を使うコミュニケーションは、空気を用いた、人間の根本的なコミュニケーションと非常に似ているのです」(92)。

 これに対して、「インターネットは、コミュニケーションのうちの二種類の違った役割を、両方含んでいると言ってよいことがわかります。繰り返しになるようですが、「中間」の役割と、「両端の人間」の役割です」(96)。実は本文中におけるこの役割の説明はいまいち不明瞭なのだが、パラフレーズをすると、「声を拡大する」役割だけではなく、多数がそこに関わる状況で、話す相手の調整をするという役割を持つということ。ラジオやテレビが有するのが、たんに「声を拡大」する機能だとすれば、インターネットはその機能に加えて、多数の声が飛び交う中で、話をしたい相手を引き合わす機能をもっているというわけだ。

 インターネットと言語の関係の話題もおもしろい。(紹介省略)

 JUNETのWIDEというプロジェクトの話で、「東京大学という国家の資産と民間の企業が直接結ばれるということは、なかなか心理的にもむずかしい」というので、「スムーズに民間企業と国立大学との交差点になる」という理由から、岩波書店に場所を借りたのだという。岩波書店という歴史的に特別な存在が、新しいメディアへの橋渡しに一役買ったというエピソードとして、ちょっと興味深い(156)。

 本書が出版された1995年時点で、まだまだ発展していなかった技術は、スマホ、動画配信、AIあたり。しかし、「モーバイル・コンピューティング」の技術の可能性については、すでに本書中に触れられている。一方、動画配信については、インターネットに任せることに否定的な意見が書いてあって、本書の記述中、唯一的外れな見解になっているとおもったら、実はこの著者自身が、現在の動画配信技術の基礎をつくるのに大きな貢献をしていったらしい。本書のあと、当人がさらに切り拓いていったという・・・・・・。

[J0506/240831]

三橋健「靖国信仰の原質」

副題「神道宗教の立場から靖国信仰の本質にせまる」、『伝統と現代』1984年春号(15巻1号)。当時、國學院大学助教授だった著者によるこの論考は、ずいぶん物議を醸したらしい。靖国神社を御霊信仰と結びつけたものだというので、興味が湧いて読んでみた。

本論考の主張。英霊に対して「国家のために勲功をたてて戦死した英霊である」とか、「名誉の戦死をとげた英霊である」などと英雄神のようにほめたたえて、これをまつろうとするのは「いかにも形式的であり、その場のがれの建前論にすぎない」と、著者は言う(25)。

「靖国の神・護国の鬼たちは、国家の間違った政治によって戦地へかり出され、あげくのはては無実の罪でありながら殺戮されたのである。つまり国家悪のために殺された神なのである。したがって、靖国神社や護国神社にまつられている神たちは怨念を持った、いわゆる怨霊神・御霊神なのである」(25)。
「靖国の神・護国の鬼たちは、死にたくて死んでいったのではない。むしろその逆で、生きていたかったのであるが、殺されたのである。だから、死んでも死にきれないというのが本音であろうとわたくしは考える。それゆえに、のろい、たたりの神であり、成仏を願わない神である」(25)。

著者は、こうした「無実の罪によって殺戮された」神々をまつるこころは、日本の伝統に属することだともしている。「靖国の神は、このように苦しむ神・殺戮される神なのである」(25)。

こうしてこの筆者は、次のように「靖国信仰の本義」を説明している。
「畢竟するに、靖国の神の誓いは「不戦の誓い」である。戦争によって殺されたがゆえに、再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを本誓としているのである。したがって、その神の前に立つものは、何億何千万という市民を殺戮するような戦争は絶対に起こさないとの決意を新たにするのである。これが靖国信仰の本義なのであるが、それを政治に利用するために、建前論だけでもって説明する傾向にあるのは、靖国の神を冒瀆するものである」(25-26)。

現在やこれまでの靖国信仰の是非は措くとして、三橋論文は学問的な知見としては支持しがたい内容で、反戦の神として靖国の英霊を新たに位置づけなおそうとする、著者によるひとつの「解釈」ないし「提案」と受けとるべきだろう。それにしても、この「解釈」は、たしかに大いに反発を生むはずのもの。國學院大學に籍を置いていたらなおさら、なかなか発表するのに勇気が要りそうなと思う論考。

ちょっと検索をかけてみたら、宗教と政治の問題に詳しい塚田穂高さんが、この件に関して(旧)連ツイをしているのを発見。https://x.com/hotaka_tsukada/status/1064738533217193984

塚田さんが、本件に言及している文献として、次の本を紹介してくれている。
天道是『右翼運動一〇〇年の軌跡ーその抬頭・挫折・混迷ー』(立花書房、1992年)

この天道本によると、靖国神社の御霊信仰説は、三橋論文よりもはやく、橋川文三が「靖国思想の成立と変容」で唱えているらしい(著作集2に収録されているらしい。Cinni をみると、1974年『中央公論』89巻10号が初出?)。

塚田さんが取り上げているのは、『文藝春秋』2018年12月号に掲載された小堀邦夫・靖国神社前宮司の独占手記「靖国神社は危機にある」で、この手記に靖国神社・御霊信仰説に通じるような証言が含まれていることに注目している。

[J0505/240830]

伊藤孝『日本列島はすごい』

副題「水・森林・黄金を生んだ大地」、中公新書、2024年。地質学の観点からみた、日本列島の特徴を解説する。

序章 日本列島の見方
第1章 かたち―1万4000の島々の連なり
第2章 成り立ち
第3章 火山の列島―お国柄を決めるもう一つの水
第4章 大陸の東、大洋の西―湿った列島
第5章 塩の道―列島の調味料
第6章 森林・石炭・石油―列島の燃料
第7章 元祖「産業のコメ」―列島の鉄
第8章 黄金の日々―列島の「錬金術」
終章 暮らしの場としての日本列島

一般的な温泉の湯は、雨水に由来する貯留層の水がマグマだまりなどの熱によって地上に戻ったものである(火山性)。それに対して、有馬温泉の湯は、海底でプレートに取り込まれた水が放出された、世界でも珍しいタイプの湯であるという(プレート直結型)。

プレートに取り込まれた水は意外な、そして重要な役割を有している。地球深部にあるマントルをつくる岩石は通常、1500℃くらいにならないと溶けないが、そこに水があると500℃も低い1000℃ほどの条件で岩石が溶け、マグマがつくりだされるという。「気象庁によると、日本列島には111個の活火山が分布している。日本列島に活火山が多いのは、地下深部がほかの場所よりも温度が高いからではなく、そこに水が豊富に存在しているからである。日本列島だけではない。太平洋を取り囲む環太平洋火山帯を構成する火山は沈み込んだプレートから放出された水により作られたものだ」(70)。海水と岩石を混ぜて、なんだかオノゴロ島神話を思い出すではないか。

東シナ海から日本海へ、黒潮から分岐した対馬海流が流れ込む入り口となっている対馬海峡は現在の水深で130mと浅い。地球が寒冷期を迎えると、海水準が低下して、黒潮が日本海に流れ込むことができなくなる。約2万年前の最終氷期にはこうしたことが生じた。「結果、北風に率先して水蒸気を供給するものはなく、全球的には低温である氷期に、日本海側はむしろ雪が少ない、という少々不思議な具合になる」(97)。現在のように間氷期には、その逆の豪雪となるわけだ。

日本のことではないが、地中海では海水が入りこんでは蒸発を繰り返し、岩塩である蒸発岩が堆積し続けた。その影響として、「この時代、大洋の海水塩分濃度は3.5%から3.3%と低下した。そしてこの大事件は、これが起こった地質時代名が冠され、「メッシニアンの塩分危機」という地学マニアをくすぐる名称がつけられている」(115-116)。どのへんが「危機」なのか、また別の本などで勉強しなくては。

石炭の生成について。植物が陸上で繁茂しはじめたのは約5億年前。3億5000年前からは「大森林時代」がはじまるが、このとき植物の大型化を支えたのはリグニンという有機化合物について、これを分解できる生物は誕生していなかった。このため、とくにこの時代に地中に大量の有機物が埋没することになったという。リグニンを分解できる木材腐朽菌(きのこ)が誕生したのは、約3億年前だという。これもまた、断片的な説明なので、要勉強。

地質学からみれば、日本列島に襲う脅威としては、地震以上に火山であるらしい。宝永の富士山噴火(1707年)が有名だが、地質学的には大規模な噴火とは言えない。7300年前、硫黄島近海の鬼海カルデラの大噴火(鬼海アカホヤ噴火)のほか、2万9000年前に姶良カルデラを作った大噴火では、鹿児島・宮崎を含む九州南半分を火砕流が覆い尽くしている。この規模の大噴火は、9万年前の阿蘇の大噴火と、12万年間で3年しか起こっておらず、噴出量でそれよりも二桁小さい規模の火山さえ、鬼海アカホヤ噴火以降経験していないという「7000年間の僥倖」というべき時代なのだという。こうして考えてみると、鬼海アカホヤレベル(10の12乗トン)とは言わなくても、7×10の8乗=7億トンレベルであった宝永噴火の100~1000倍レベルの火山噴火は、いつ起こってもおかしくないといえそうである(本書が直接言っているわけではなく、僕が考えただけだが)。

[J0504/240826]