Month: November 2020

ジェイムズ・リーバンクス『羊飼いの暮らし』

濱野大道訳、ハヤカワノンフィクション文庫、2018年、原著2015年。

それが書かれたことに感謝したくなる本はそう多くはないが、この書はそうした本のひとつだ。「羊飼いの暮らし」というタイトルや「イギリス湖水地方の四季」というサブタイトルはちょっと舌足らずで平凡すぎるかもしれない。ここに描かれているのは、イギリスに綿綿と受け継がれてきた羊飼いという生き方であり、それを現代に抗し、また現代の中で守ろうとする作者の姿である。

それは、筆者が鋭く書いているように、ロマンティシズムの眼鏡をかけて湖水地方を訪れる観光客の目にはまったく映らない生き方である。リーバンクスは、農場の生と死、血や病や寒さの仔細まで包みかくさず描いているが、そこからは、羊飼いの伝統的な暮らしにおいてリアルであることがすなわち詩的でもあって、それがまったく切り離せないことを教えられる。ふつうなら当事者は語ろうとしない、ただ黙々と、羊と土地のために働く生き方について、そこに身を投じながら、それを丁寧に翻訳してくれた筆者に感謝したい。600年以上、代々羊飼いをしてきた家に生まれた筆者であることが重要で、よくある脱サラ的に帰農した著述家の見ているものともまったく違った世界が描かれている。

「すべてを自分で決め、人生をゼロから作り上げる人もいる。しかし、私の人生はちがう」(70)

「農場での仕事の多くは、”合理的な経済的意味”の枠の外にある。なかには、石垣の修理に一年のうち五〇日以上を費やすファーマーもいる。おそらく、崩れた石垣の石を売って金にするのが現代的な選択肢にちがいない。ファーマーたちはただ、やるべきことをやっているだけなのだ」(284)

「羊飼いの仕事の掟三ヶ条―― 一、自分自身ではなく、羊と土地のために働くこと。二、「常に勝つことはできない」と自覚すること。三、ただ黙々と働くこと」(285)

危機や変容はあるにせよ、羊の種類も在来種であるハードウィックにこだわる、こういう生活が今日にも存続していることはすごい。やはり、近代を自ら生み出した社会として、イギリスは伝統的社会からの断絶としての近代化を経験していないというのは本当だという気がする。

著者ジェイムズ・リーバンクのツイッターも人気とのこと。

https://twitter.com/herdyshepherd1?s=20

[J0105/201128]

ジョン・マクミラン『市場を創る』

瀧澤弘和・木村友二訳、NTT出版、2007年、原著2002年。

唯一の自然な経済/知性の勝利/地獄の沙汰も金次第/情報は自由を求めている/正直は最善の策/最高札の値付け人へ/サァ、いくらで買う!/自分のために働くときには/特許という困惑/なんびとも孤島にあらず/公衆に対する陰謀/草の根の努力/他人のお金を管理する人々/競争の新時代/空気を求めて/貧困撲滅の戦士たち/市場の命令

いかに市場が機能するか、機能させることができるかを、さまざまな場面について考察する、実にまともな本。奇をてらったところもなければ衒学的でもなくて、勉強になる。

市場原理至上主義と市場経済害悪論のどちらにも与さないのが筆者の基本的な立場で、「市場か国家か」ではなく「市場も国家も」であるという。たしかにこの本を読むと、市場経済自体が良いとか悪いとかいう言い方は粗雑にすぎることがよく分かってくる。以下、抜き書き的に。

「市場をうまく機能させるプラットフォームは、次の5つの要素を備えている。情報が円滑に流れること、財産権が保護されていること、人々が約束を守ると信頼して差し支えないこと、第三者に対する副次的影響が抑えられていること〔*外部性の問題〕、そして競争が促進されていることである」(ii)。これが基本的な観点。

「レンブラントは、絵画だけではなく、商業におけるイノベーターでもあった。彼は17世紀アムステルダムにおいて本格的な美術品市場を確立すること尽力した」(35)。へー、そうだったのか。

「どのような取引も売り手と買い手の両者に利益をもたらし、価値を創出する。したがって、売買は創造の一形態である」(36)。ふむ。

「比較ショッピングのために苦労をおしまない人たちは、他のすべての買い手のために役立っている。経済学の専門知識でいえば、その人たちは正の外部性をもたらしている」(68)。1円2円安いタマゴやネギを求めて奔走する人たちも、実は役に立っているということか。この辺のポイントのひとつは、情報獲得やその探索も費用がかかっており、計算の俎上に乗せるべきことだとのこと。

「うまく設計された市場は、実際に正直者が得することを保証するための、公式・非公式のさまざまなメカニズムを備えている。市場における信頼関係は、無節操な人々にも約束を守らせるようなルールや慣習を基礎としている」(76)。つまり、正直とはもはや倫理的な価値ではなく、経済的な価値だってことだ。

おもしろかったポイントのひとつ、私的所有と財産権は一緒ではないという指摘。私的所有がなくとも、財産権の保証があれば、それは労働や革新のインセンティブになり得る(Ch.8)。それが中国の経済発展をもたらした条件のひとつだったという。もともと2002年の本だが、ロシアと中国を比較して、市場経済における後者の成功の秘密を論じる箇所があちこちにある。

知的財産保護は、弱い方が良いときもあるし、そうでないときもある(164)。「知的財産は、イノベーターに報酬を与えることとアイディアの完全な利用を許すことという、相互に両立しない目的にかかわるため、知的財産保護の普遍的な理想的水準というものは存在しない」(170)。この観点からすれば、創作の動機にならない著作権の死後50年や70年といった保護は、擁護されないという。

ロナルド・コースの指摘らしいが、外部性問題は、明確に定義された所有権があれば解決する(175)。しかし、所有権が明確にしにくい海洋漁業では解決が困難である。数ある資源保護策のうち、数量割当という財産権の割当が比較的機能しているが、財産権の監視には費用がかかり、見落としもあるという不完全性もある(183)。所有権ないし財産権というかたちで特定の個人や団体にものごとを割り当てることで、責任をもたせるということが、市場経済の基本原理であることが分かるね。第十四章では、二酸化硫黄の排出許容量のライセンス方式についても扱っている。

汚職は市場の機能を低下させ、国を貧しくするが、例外としてスハルト大統領政権下のインドネシアは、汚職を独占するために官僚の汚職を統制したために、高度な経済成長を長期にわたって達成したという(Ch.11)。対して、汚職のコントロールできなかった例が、ロシアだという。

アインシュタインは1949年に「なぜ社会主義か」という、市場経済を批判し中央計画経済を支持する論文を書いている(211)。んだそうだ。

「中央計画経済の落とし穴は基本的に情報の問題である」(212)。「情報不足は中央からのコントロールにつきものである。多くの情報は一番下のレベルで発生する。経済を運営する上で重要な知識は科学的・工学的知識だけでなく、しばしば一時的な一見些細なことに関する、より日常的な知識からも構成されている」(217)。そうなんだよ。文科省よ。

「市場経済がうまく行くのは、予測は通常正しいからではなく、誤った予測の結果がチェックされるからなのである。市場経済では、一国全体が分散して賭けをしているのである」(221)。ただ、分権的である市場経済が機能するためには、それを可能にするよう、中央権力による制御が必要であるとするのが、マクミランの見方である。それは、いわゆる公的なインフラストラクチャに加えて、市場ゲームのルール設定という法的あるいは規制的インフラストチャについてである。中央権力による制御の必要は、高度に分権的であるインターネットについても同様である(228)。

「地下経済は、自生的秩序が市場の発展と繁栄を可能にすることを示している。しかし、それはある程度までのことである。取引が単純で企業が小規模であるときにだけ、自生的な秩序はうまく働く。その限界を超えると、政府がまったく存在しなければ、市場は機能不全に陥るのである」(236)。

第13章の問いがおもしろい。企業は国と同様に集権的であり、また一国経済ほどの規模になることもある。そこで問われるのは、国による計画経済が非生産的なのに、企業による計画経済はなぜ生産的でありうるか、という問いである(239)。答えは複数用意されているが、企業の存在意義として説明されているのは、「企業は市場における摩擦への対応として存在している・・・・・・。ときとして、市場を使うよりもヒエラルキーを運営した方が少ない費用で済むことがある」(242)とのこと。

株式会社における所有と経営の分離は、アダム・スミスがみたように、経営の怠慢を生む構造がある。しかし「市場のシステムはチェックとバランスをもたらす。市場の力は、外部から企業に圧力をかけることによって、経営者の意思決定を制約し、経営者に企業を効率的に経営するよう促す」(247)。この辺は、かつての日本の自社株所有的なあり方を考察するヒントにもなりそうだ。

国家による市場の規制は、法律だけでは十分ではない(250)。市場を監視する規制機関の官僚機構は、うまく機能しているときは、立法府や裁判所よりも動きがすばやい(251)。なるほど、官僚制の敏捷性か。

計画経済からの改革について、失敗したロシアに対して、成功した中国(298)。それは、ボトムアップで自生した郷鎮企業の活躍のように、全面的なトップダウンではなかったところにあったという。経済改革は「予測不可能性」を含んでおり、それへの対処はトップダウンでは難しい。マクミランはこう表現してはいないが、いわば、市場こそがそうした予測不可能性への感性を有しているのである。「うまく機能する市場は、公式のコントロールと非公式のコントロールの両方の賢明な混合に依存している。政府は市場のルール設定の手助けを行うが、市場参加者も同様のことを行っているのである。経済全体を上から設計することはできない」(301)。

貧困問題について。経済成長は一般に、貧困を減少させる(310)。しかし、経済成長だけで貧困問題を解決できるわけでもない(311)。極度の貧困は経済成長の開始を妨げる。不平等は、社会的不安をもたらし、また教育や経済における投資をできなくする。なお、マクミランはなぜか(?)富の再分配の是非については、経済学の問題ではなく各人の価値観の問題だとして、棚上げする。また、グローバリゼーションについても、それは貧困問題を一方的に悪化させるわけでも、改善させるわけでもないという(319)。

チャーチルの有名な言葉とともに、E.M.フォスターの言葉を引いて、「民主主義に対して2つの万歳。1つは、それが多様性を認めるからである。もう1つはそれが批判を許容するからである。2つの万歳で十分である。3つ目の万歳を理由は見あたらない」(328)。マクミランは、この言がそのまま市場経済にも当てはまるという。そして締めて、「市場はうまく設計されたときにのみ。うまく機能する」(329)。

たしかにマクミランは、自由市場至上主義者ではない。だけれども、国家などがうまく調整して条件を整えさえすれば、市場経済は世界を良くする手段であるとして、市場経済を適用すること自体の絶対的な限界や弊害を考えようとはしないという意味では、その議論の枠組みは一種の経済至上主義ではあるだろう。実際に世界が市場経済に支配されていることを考えれば、実践的な合理性のある立場ではある。

[J0104/201127]

ドン・タプスコット『デジタルネイティブが世界を変える』

栗原潔訳、翔泳社、2009年、原著も2009年。ひとむかし前に売れた本を、いま読んでみた。

調査に基づくというが、とにかくデジタル世代を擁護して、上の世代や親、上司、政治家などにアドバイス。最後はデジタルネイティブ世代にも「良い感じの説教」をして締める。ネット世代への懐疑や「恐怖」へのカウンターとして、あれこれ考えなおすきっかけにはなるかな。いかにも売れそうな本で、一級の研究や批評とは言いにくい。本を読まなくなったネット世代にも読んでもらおうと思えばちょうどいいという戦略・・・・・・?

第1部 ネット世代登場
 1. 成人になったネット世代
 2. ビット漬けの世代
 3. 世代の特性:ネット世代の八つの行動基準
 4. ネット世代の頭脳)
第2部 既成制度を変革する
 5. 教育を再考する-ネット世代における教育
 6. 人材管理を再考する―職場におけるネット世代
 7. Nフルエンスネットワークとプロシューマー革命―消費者としてのネット世代
 8. 新しい家に勝る場所はない―ネット世代と家族
第3部 社会を変革する
 9. オバマ、ソーシャルネットワーク、市民参加―ネット世代と民主主義
 10. 世界を根本的に良い場所に
 11. 未来を守る

本書の定義するネット世代は、1977年から1997年生まれから。1998年よりあとの生まれは、ジェネレーションZとして区別されている。アメリカが対象だから、日本で同じことをしようとすれば、もう少し後ろにずれるはずだろう。ネット世代の8つの行動基準というのが挙げられていて、それが本書の基本線に置かれている。
1 自由を好む
2 カスタマイズ、パーソナライズを好む
3 情報調査に長けている
4 商品購入や就職において企業の誠実性とオープン性を求める
5 職場・学校・社会生活で娯楽を求める
6 コラボレーションとリレーションの世代である
7 スピードを求める
8 イノベーターである
 この基準がもし調査の結果なら、日本ならどうなるか気になるな。調査や比較研究があるのだろうか。

ベビーブーム世代の若者は自由を家の外に見つけ、ネット世代は家の中に見つける、のだそうだ。もちろんネットの存在というポジティブな要因の他に、ネット世代には家の外の自由がなくなったという。管理の問題と、見ず知らずの人への怖れという心理があると。家族関係も変化して「ホバリングするヘリコプターペアレント」なんて、日本で言うモンペ的な親の関与の話題。

たしかに、ネットの社会的効果は気になる話題ではあるので、また関連書などチェックしていきたい。

[J0103/201115]