副題「菅原道真・平将門・崇徳院」、中公新書、2014年。著者は古代・中世史の専門家で、道真らの同時代の様子に詳しいのはもちろん、江戸時代など後世になって怨霊譚がさらに流布していく歴史的過程までを記述。古代・中世に怨霊が語られた背景には、社会不安があってのことと分かる。

七体に分身して一体だけが本物。分身には影がないので見破れる。体は鉄でできていて、弱点はこめかみだけ。斬られた首と体が合体すると、復活する。これ、平将門のことらしい。

第1章 霊魂とは何か
第2章 怨霊の誕生
第3章 善神へ転化した菅原道真
第4章 関東で猛威をふるう平将門
第5章 日本史上最大の怨霊・崇徳院
第6章 怨霊から霊魂文化へ

「怨霊」の語の初見は、『日本後紀』延暦24年(805)四月甲辰条で、早良親王(750-785)の霊魂の慰撫について書かれた項目とのこと。

「日本史上最大の怨霊」崇徳院(1119-64)は、『梁塵秘抄』に収められている関連の歌や、『今鏡』の記述をみても、実際には寂しくもおとなしく亡くなったものらしい。それが、「魔縁となれば」との置文を遺した後鳥羽院(1180-1239)の怨霊が語られるようになると、境遇のよく似た崇徳院にもスポットが当たり、『保元物語』や『平家物語』の記述が成立したと、本書著者は考察している。こうして、悲劇の死を遂げた安徳天皇(1178-85)とも並んで、崇徳院の慰霊が重要視されるようになったという。

崇徳院以後にあらわれた怨霊には、源義朝、奥州藤原氏、後鳥羽院、北条高時、護良親王、後醍醐天皇などのそれがある。しかし、災異の原因を怨霊に帰結させて国家的対応をとるような「怪異のシステム」は、戦国時代にはなくなっていったと著者は述べている(179)。

また著者の見解として、「一般的に、人を神とするのは、怨霊の場合を除いて、豊臣秀吉を豊国大明神として祀った戦国時代まで降るとされている。しかしこれは国家が人を神として認定する場合であって、個人が私的に自分の先祖を神として祀ることは古くから行われていたものと思われる」(180)と述べている。すこし判断は保留しておきたいが、本書ではいくつかの例が挙げられている。

また著者は、「怨親平等」思想の伝統に注目して、日清・日露戦争や日中戦争、太平洋戦争でもその発露があったとしている。その事例もたいへん興味深いが、この論点も、ペンディングとしておきたい。

[J0531/241104]