副題「神道宗教の立場から靖国信仰の本質にせまる」、『伝統と現代』1984年春号(15巻1号)。当時、國學院大学助教授だった著者によるこの論考は、ずいぶん物議を醸したらしい。靖国神社を御霊信仰と結びつけたものだというので、興味が湧いて読んでみた。

本論考の主張。英霊に対して「国家のために勲功をたてて戦死した英霊である」とか、「名誉の戦死をとげた英霊である」などと英雄神のようにほめたたえて、これをまつろうとするのは「いかにも形式的であり、その場のがれの建前論にすぎない」と、著者は言う(25)。

「靖国の神・護国の鬼たちは、国家の間違った政治によって戦地へかり出され、あげくのはては無実の罪でありながら殺戮されたのである。つまり国家悪のために殺された神なのである。したがって、靖国神社や護国神社にまつられている神たちは怨念を持った、いわゆる怨霊神・御霊神なのである」(25)。
「靖国の神・護国の鬼たちは、死にたくて死んでいったのではない。むしろその逆で、生きていたかったのであるが、殺されたのである。だから、死んでも死にきれないというのが本音であろうとわたくしは考える。それゆえに、のろい、たたりの神であり、成仏を願わない神である」(25)。

著者は、こうした「無実の罪によって殺戮された」神々をまつるこころは、日本の伝統に属することだともしている。「靖国の神は、このように苦しむ神・殺戮される神なのである」(25)。

こうしてこの筆者は、次のように「靖国信仰の本義」を説明している。
「畢竟するに、靖国の神の誓いは「不戦の誓い」である。戦争によって殺されたがゆえに、再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを本誓としているのである。したがって、その神の前に立つものは、何億何千万という市民を殺戮するような戦争は絶対に起こさないとの決意を新たにするのである。これが靖国信仰の本義なのであるが、それを政治に利用するために、建前論だけでもって説明する傾向にあるのは、靖国の神を冒瀆するものである」(25-26)。

現在やこれまでの靖国信仰の是非は措くとして、三橋論文は学問的な知見としては支持しがたい内容で、反戦の神として靖国の英霊を新たに位置づけなおそうとする、著者によるひとつの「解釈」ないし「提案」と受けとるべきだろう。それにしても、この「解釈」は、たしかに大いに反発を生むはずのもの。國學院大學に籍を置いていたらなおさら、なかなか発表するのに勇気が要りそうなと思う論考。

ちょっと検索をかけてみたら、宗教と政治の問題に詳しい塚田穂高さんが、この件に関して(旧)連ツイをしているのを発見。https://x.com/hotaka_tsukada/status/1064738533217193984

塚田さんが、本件に言及している文献として、次の本を紹介してくれている。
天道是『右翼運動一〇〇年の軌跡ーその抬頭・挫折・混迷ー』(立花書房、1992年)

この天道本によると、靖国神社の御霊信仰説は、三橋論文よりもはやく、橋川文三が「靖国思想の成立と変容」で唱えているらしい(著作集2に収録されているらしい。Cinni をみると、1974年『中央公論』89巻10号が初出?)。

塚田さんが取り上げているのは、『文藝春秋』2018年12月号に掲載された小堀邦夫・靖国神社前宮司の独占手記「靖国神社は危機にある」で、この手記に靖国神社・御霊信仰説に通じるような証言が含まれていることに注目している。

[J0505/240830]