Month: March 2023

橋本倫史『水納島再訪』

講談社、2022年。

1 夕日
2 庭先
3 井戸
4 桟橋
5 校舎
6 灯台

この著者による『ドライブイン探訪』が同人誌のときから好きで、その後も著作をちょこちょこと読んでいるわけだが、本書はなんと、沖縄本部町から船で15分のところにある小島、水納島の滞在記。なんと、というのは、極個人的な理由であって、僕も何の目的もなく、ふらっと滞在したことがあり、そのことが思い出になっている島だからだ。海水浴の時期は人で賑わう場所らしいが、僕が訪れたのは2月で、「何もないのに」と水納島に来たこと自体を笑われたもんね(地元民にではなく仕事で来てた人に)。橋本さんとは感覚が近いのかな。

聞き取り調査のようで、エッセイのようで。それでいて、あれこれ資料にも当たっていて、巻末には解説付きのリストもついている。学術的な参考文献だけではないので、ほう、椎名誠も水納島に来たことがあるんだな、とか、眺めていても楽しい。

学術的な調査ではないからこそ拾える、地元の人がなにげなく語る、断片的な過去の思い出話の数々。橋本さん独特のアプローチには、「なんかいい」を生みだす理由がある。「なんかいい」を形にとどめて残せるのはすごいことだ。

過去の記事
>橋本倫史『市場界隈』

[J0350/230331]

M.チャンギージー『ヒトの目、驚異の進化』

副題「視覚革命が文明を生んだ」、柴田裕之訳、ハヤカワノンフィクション文庫、2020年。原著は2009年、2012年に出版された訳書の文庫化。

第1章 感情を読むテレパシーの力―カラフルな色覚を進化させた理由
第2章 透視する力―目が横ではなく、前についている理由
第3章 未来を予見する力―目の錯覚が起きる理由
第4章 霊読(スピリット・リーディング)する力―ヒトが文字をうまく処理できる理由

章ごとにけっこう内容は異なっている。

第一章。肌色は、肌色としかいいようのない色であるが、それは裸のサルである人間にとって肌がフルカラーのディスプレイとして役立つように、つまり相手の感情や生理的状態を読み取ることができるように自然淘汰を受けてきたからだという。さらに、「私たちの色覚は、肌の自然な特性に応じて進化したのであり、その逆ではない」という(61)。

「男性の一割近くが色覚異常なのに、女性は0.5%に満たない。それどころか、ほとんどの新世界ザルは、メスにしか色覚がない」(76)。このことに対してチャンギージーさんが与える説明は、乳幼児の健康状態を知るのに、顔色のシグナリングを受けとることが非常に重要だからであるというもの。

第二章。人間のように前方方向に目がふたつ、ある程度の間隔で付いている動物は、目の前の障害物とその背景を同時見るためにそうなっているという話。つまり、葉が生い茂っている森のような環境への適応であると。もし、サバンナのように見通しのよい環境であれば、目は側面にあったほうが広い視野を獲得できる点で有利である。もちろんそのとき、葉(障害物)に対する体の大きさも、目に求められる機能を決定する要因となる。実際、体の小さな生物で、目が前向きについている生物はいないらしい。

ところが現代世界の生活空間は見通しのいい状況になっていて、こうした「透視能力」を遊ばせていることになっていると、さらなる視覚技術の進化までを著者は想像している。

第三章、とくにおもしろい章。視覚とは、目の前の世界を写しとることを一義とするものではない。それは、人間が安全かつ効率的に運動できるように進化してきたものだ。そのためには、たんに現在の状況を知覚するのではなく、動きの中で「未来予測」を含んだ知覚である必要がある。

こうした未来予測は誤ることもあるが、そうした記憶は消去して是正するしくみが脳に備わっているらしい。未来予測やその是正というこうしたしくみの応用から、各種の錯視が生まれる。「本当は同じ長さの線がちがう長さにみえる」みたいなやつだったり、動きが生まれる錯視だったり。こうして、錯視図形のすべては「現在を知覚する」という観点から統一的に理解できるとする、「錯視の大統一理論」を仮説として提唱する。

視覚はカメラとは異なるということ。これらの話は、スポーツ科学や知覚の現象学に対しても非常に重要だし、ベンジャミン・リベット『マインド・タイム』の議論などとも関連づけられそうだ。

第四章。文字のようなシンボルの形態が、自然界の知覚に由来することを論じる。

*こちらはヒトの視覚の進化の話で、パーカーの議論はカンブリア大爆発における視覚の進化の話でぜんぜんちがうといえばちがうけど、「視覚と進化」ということで記事へのリンクを貼っておく。
>A.パーカー『眼の誕生:カンブリア紀大進化の謎を解く』

[J0349/230330]

小川忠『逆襲する宗教』

副題「パンデミックと原理主義」、講談社選書メチエ、2023年。

序章 世界の宗教復興現象――コロナ禍が宗教復興をもたらす
第1章 キリスト教(プロテスタント)――反ワクチン運動に揺れる米国
第2章 ユダヤ教――近代を拒否する原理主義者が孤立するイスラエル
第3章 ロシア正教――信仰と政治が一体化するロシア
第4章 ヒンドゥー教――反イスラム感情で軋むインド
第5章 イスラム教――ジハード主義者が天罰論拡散を図る中東・中央アジア
第6章 もうひとつのイスラム教――宗教復興の多面性を示すイスラム社会、インドネシア
終章 コロナ禍で日本に宗教復興は起きるか

新型コロナパンデミック下の世界諸地域における諸宗教の対応や反応を整理。調査に入りにくい状況下でこうした概観をするのは難しいことと思われるが、各地でのレポートを多く参照しながらまとめていて、今の世界状況の理解の助けになる。

著者は本書で、「コロナ禍に非科学的で非合理的な反応をする宗教」という一方的な理解を斥けて、たとえば災禍における心のよりどころとして働くといったポジティヴな面をもバランス良く認めようとする。それでもやはり、パンデミックの影響で、宗教をめぐる社会的断絶がより露わになった場面も多いようだ。

著者のもともとのフィールドはインドやインドネシアのようで、未読で申し訳ないが、原理主義に関する著書も出版されているらしい。「原理主義者は「解釈しない」という「解釈」をする裏返しの近代主義であるともいえる。新型コロナウイルス危機による社会状況の激変のなかで、原理主義者が永遠不変と奉じる「原理」にも、彼ら自身も無自覚のうちに新たな解釈を施しているのである」(158)。

もうひとつメモ。インドのヒンドゥー・ナショナリズムによるイスラム教徒やキリスト教徒への迫害を見ながら、「一神教は不寛容、多神教は寛容」という日本で流行った言説に違和感を覚えたという話(124)。これは藤原聖子さんも書いていたことだが(『宗教と過激思想』)、示唆に富む話。「神道ナショナリズム」や「アニミズム・ナショナリズム」のようなことだって成立しうるということ。

著者の小川さんは「あとがき」で、安倍元首相銃撃事件に触れて、それが「世俗社会の側にいる個人から」の怒りの暴発であるにかかわらず、「元首相銃撃事件によって、反社会的な問題のあるカルト組織のみならず宗教一般までをも胡散臭いものとみなし忌避する風潮が日本社会に広がるのではないか、という危惧を感じている」と、オウム事件の社会的影響の前例にも言及しながら述べている(234)。そしてそのことで、「宗教復興が進む海外諸地域との相互理解は一層難しいものとなる」のではないかと。いや、これは実際に起こっていることなのではなかろうか。

[J0348/230329]