Month: August 2021

高井としを『わたしの「女工哀史」』

1 『女工哀史』日記
2 ヤミ屋日記
3 ニコヨン日記

岩波文庫、2015年。原著は1980年。前半は、岐阜の貧しい炭焼きの家に育った生い立ちから、『女工哀史』の細井和喜蔵の妻として、ともにこの仕事に打ち込んだ話。後半は、ニコヨンと呼ばれた日雇い労働者として、労働運動に打ち込んだ人生について。

とくに戦前・戦後すぐの頃の話は、周囲の人がしょっちゅう死んで、残酷と野蛮と純情に満ちていた時代が印象に残る。人生を通じてとにかくエネルギッシュで硬骨で、外見だけだとありふれた小柄なおばあさんに見える、扉の写真を何度も眺めなおしてしまった。細井和喜蔵の影に隠れていたとしをが老年を迎えてから「再発見」される経緯については、としをへの共感に満ちた、齋藤美奈子さんによるさすがな解説を。

時代性がわかる記述も多いのだけども、脇道的にちょっと興味深かったのは、1962年くらい、失業対策事業の仲間にもさかんに創価学会の勧誘がきて、ケンカの原因になって困っていたところの話。一計を案じたとしをさん、みんなで高野山にお参りへ。「そこで私が「今日から弘法大師と日蓮上人のけんかはやめましょう。お大師さんも日蓮さんもお情け深いお方で、私たち衆生が仲よく心おだやかに、いたわりあってしあわせに生きるためにお心を痛め、時の権力者から追われて、奥深い山や波荒い佐渡へ流罪になったのです。私たちが学会だ、大師さんだ、天理さんだとあらそっていたら、今は仏さまになられた方が泣かはると私は思う。今日から創価のソの字も禁句にする」とちょっとえらそうにいったけど、みなみなだまっていました」(249)。結果、学会員の人は一人抜け二人抜けして「結局、公園班には創価学会員は一人もおらなくなりました」とのこと。もちろんというか、としをさんは社会主義者だから基本、無神論者であった模様。

[J0195/210830]

ヤマザキマリ『ヴィオラ母さん』

文藝春秋、2019年。

第1章 リョウコが母になるまで
第2章 働く母、リョウコ
第3章 リョウコに教えてもらったこと
第4章 リョウコと衣食住
第5章 リョウコと家族
第6章 リョウコという母親

ヤマザキさんの母親が札響の創始メンバーだと聞いて、一読。札響とは札幌交響楽団のことで、北海道ではよく親しまれている地元のプロ・オーケストラ。もともと神奈川のお嬢さんだったリョウコさんだが、ヤマザキさんが生まれてすぐ、札響の指揮者だった夫は病死してしまい、その後多くの期間をシングルマザー音楽家としてふたりの娘を育てたとのこと。

おもしろエピソード満載だが、とくに印象に残るのは、再婚相手の母、ハルさんとの関わり。もともと日本国外で働き、別居していた再婚相手の夫とはあまり長く続かなかったようだが、行動パターンでは対照的な、義母のハルさんとリョウコさんは気があったとのこと。離婚後も一緒に暮らして、「晩年は認知症を患い、私や妹も誰かわからない状態になっていたが、リョウコのことだけは忘れることがなかった。近くの病院に入院をした後も、リョウコが病室に入っていくとその表情はパッと明るくなり、皺だらけの震える手を差し伸べてリョウコの手をしっかり握っていたのを思い出す」(44)。

リョウコさんが海外公演で長期出張のときには、ヤマザキさん姉妹は友人の家に預けられて、不安と居心地の悪さを感じながら暮らしたと。「我々を迎えにきた時のリョウコはやたらと元気いっぱいで眩しかった。子供にやっと会えた安堵の喜びなのだろうけれど、その佇まいには何か更にパワフルなエネルギーが漲っていて、私たちを預かってくれた家族に対して恐縮している言葉と、その身にまとった輝きが全くシンクロしていない。リョウコは帰宅して一目散で岩見沢に来たので、我々に会うや否や胸の中に飽和している旅の感動と喜びが噴出して止められなくなっていて、お土産を広げて旅の話をするリョウコを前に、私も妹も圧倒されるしかなかった。淋しかったとか悲しかったとか、そんな気持ちを旅の興奮に包まれている彼女の前で晒してみたところで、みみっちいだけなような気がしてならなかったし、それ以上にリョウコの体験してきたことがうらやましかった」(61)。

「オフの日があっても、家にはヴァイオリンを習いにくる近所の子供やリョウコのカルテットの仲間たちが集まる。音楽家としてのリョウコに、母親らしい時間を割かせることはなかなか難しかったし、私も彼女にはそれを望んではいなかった。そして、やりたいことに全身全霊を注いで生きるリョウコにも、後ろめたさはなかった。だから、私の中にくよくよする性質が育まれることもなかったのだ」(76)。

それからときどき出てくる『暮らしの手帖』。「貧乏でもお金の影響力に翻弄されることのなかったあの暮らしは、リョウコが愛する『暮らしの手帖』イズムで、「お金がなくても楽しく生きていける」ことがデフォルトだった」(80)。「この雑誌の発起人であり編集者であった花森安治氏は、資本主義の波に呑み込まれていく高度経済成長期の日本人に対する警戒心を軸とした編集方針を持っていた。彼の孤立無援ながらも確固たる主義主張が、夫を亡くし気落ちしていたリョウコにとっては絶大な支えとなっていたようなのだ」(146)。

ヤマザキ家では漫画は禁止だったとのことで、それなのにマリさんが漫画家になったというのも面白い。

僕は、ヤマザキさんよりももう少し下の世代だが北海道出身者として、この当時の北海道の感じといい、この『暮らしの手帖』的なものといい、かつて覗いたことのある、見覚え・聞き覚えのある世界を振りかえっている気分。

[J0194/210830]

浅見雅一『キリシタン教会と本能寺の変』

角川新書、2020年。

第一章 信長とキリシタン宣教師
第二章 報告書「信長の死について」の成立
第三章 キリシタン史料から本能寺の変をたどる
第四章 光秀の意図
史料編 完訳・ルイス・フロイス「信長の死について」

かなりの部分が、ルイス・フロイスの報告書「信長の死について」をはじめとするキリシタン史料の性質について述べた記述で占められている。そういう本。

明智光秀の娘であった細川ガラシャは、光秀を破った高山右近を恨んだり、あるいは細川忠興に離縁される理由となった謀反をおこした父親光秀を恨んでいなかったのか、というのが、本書のひとつの問い。浅見さんがガラシャの態度とフロイス文書から推測するに、光秀には野心や私怨以外に謀反を起こす大義があったらしく、おそらくは明智家の存続を脅かすような何からの事態があったのではないかと。もしそうだとすると、細川家を守ろうとしたガラシャの自害も理解できるのでは、とのこと。

[J0193/210829]