副題「基督教的ヒューマニズムと現代」、1951年に出版された古い岩波新書。佐藤俊樹『社会学の新地平』(岩波新書、2023年)にて、もっとも参考になった一冊だとして紹介されていたので、目を通してみた。旧カナで、ウェーバーもウエーバーとなっているが、面倒なので以下ウェーバーと表記することにする。

 序説
前篇 マックス・ウェーバーの人となり
 第1章 マックス・ウェーバーにおけるドイツとイギリス
 第2章 学者としてのマックス・ウェーバー
 第3章 自由主義者としてのマックス・ウェーバー
後篇 マックス・ウェーバーの学問的特徴
 第4章 近代社会の特徴
 第5章 近代社会の成立:「呪術の克服」を中心に
 第6章 此世における良き戦いのために

 著者は、ウェーバーを、ピューリタンの精神を受け継いだ「基督教的ヒューマニズム」を生き抜こうとした人物として描いている。ただし、ウェーバーのそれは、政治的自由と国民主義的な熱情を備えた、ドイツ的なキリスト教ヒューマニズムである。佐藤俊樹さんが指摘していたとおり、このような「求道者」「聖人」としてのマックス・ウェーバー像は今では支持されないが、ここに戦後日本のウェーバー像の原点があることが知られる。

 理論の説明はたしかにバランスがとれたもので、まずは官僚制をはじめとする近代社会の社会組織の問題から把握がなされている。テンニースと対置される部分について。

「社会の合理化について、彼は、外からの(世俗的な力による)それと内からの(非世俗的な力による)それとを考えた。この外からの合理化について、商業・市場の発展、すなわち、商品生産の発展をその原因としてウエーバーが重要視したことは、彼の社会理論全体から見て、きわめて明瞭である。・・・・・・第二にまた――この点が一層重要であるが――〈こういう外からの、したがって「世俗的」な力による合理化だけでは、(反世俗的な内からの合理化をまたずしては、)近代化は不可能である〉というのがウエーバーの根本の立場である。」(141-142)

 逆に、第二の点ばかりが強調されてもおかしいだろうということになるわけだろう。

 本書の「序」には、大塚久雄への謝辞が記されていて、「本書の構想はもともと同教授の御注意から出発している」(ii)とある。大塚が与えたその注意(示唆)とは、「「緊張」の問題がウエーバーで大切なこと」だそうだ(16)。
 青山秀夫は1910年生まれで、1992年に逝去しており、京都大学の経済学部で高田保馬に師事したらしい。一方、大塚久雄は1907年生まれで1996年没であり、大塚の方が少し年上ということになる。大塚が岩波新書で『社会科学の方法』を発表したのが1966年、『社会科学における人間』の方は1977年のようだが、青山と大塚それぞれのウェーバー論の受容のされかたのちがいも、ひとつの話題にはなりそうである。

[J0503/240825]