匠雅音『路上のゲームから「近代」を考える』

副題「アジア遍歴の旅」、論創社、2025年。中国や東南アジア諸国を巡って、路上でゲームに興じている人々の様子をフィールドワーク。そこはとてもおもしろいのだけども・・・・・・。

第Ⅰ部 路上から始まる近代
第一章 運やツキから考える遊び
第二章 論理的思考型の遊び
第三章 論理的思考の盤上遊戯
第四章 農村部と都市
第Ⅱ部 前近代と近代について
第五章 近代化の進展と共に
第六章 いつ誰がどう「近代」を終わらせるか

「論理的思考型の遊びの大衆への普及が、近代=工業社会化を準備する」という仮説のもとに、思索をめぐらせる。それもまあ、いいのだが、路上で「論理的思考型」ゲームをしていないと、それは近代化していないからだとか言ってみたり、「1954年から1973年の高度経済成長期に、我が国でも縁台将棋が流行ったように、2000年頃の路上で盤上遊戯に熱中する男たちの存在が、東アジアの近代化の兆しであり、近代化が始まる先行現象だったのである」(210)といった断言は、さすがに短絡すぎるのでは。

もう少しちゃんと指摘しておくと。
・近代化している/していないの二元的な基準は単純すぎるのでは。
・「論理的思考型の遊び」というまとめ方は大雑把すぎ、恣意的すぎるのでは。著者によれば、麻雀は運の要素が入るからそこには入らないらしい。
・事実として確かめているのは、路上でゲームに興ずる人々のスナップショット的な観察と、なんとなくの国の様子だけ。たとえば、近代化の担い手になっている学校や工場にいる人の遊びがどうだとか、じっさいに将棋やマールックの思考法がどう実社会に活かされているといった場面に関する調査や観察はない。

しかも、ある程度「近代化」が進んでしまうと、屋内のゲームやコンピューターゲームに人々の遊びは移行してしまうのだという。

路上の遊戯というテーマや観察はおもしろいので、なんとも惜しいという印象。

[J0656/260402]

谷口茂『宗教の人間学』

東京大学出版会、UP選書、1980年。よくまとまっていて、50年前の宗教学や人間学の様子を知るには良い。

序章 人間の学としての宗教学のために
第1章 宗教の座:人間の脳
第2章 宗教の系統発生:初期人類と宗教
第3章 宗教の個体発生:個人と宗教
第4章 宗教の進化
終章 宇宙のなかの新しい地位

この領域の第一人者による著書だけに、哲学的人間学が、今日の認知科学に通じている部分と同時に、当時における限界もみえてくる気がする。章タイトルだけみても、「宗教の系統発生」と「宗教の個体発生」といったもの。近いうちに記事を書くつもりだが、もっとちがう境地に達していたはずのローレンツを訳していてもこうなっちゃうのだな。

「とくに注目しなければならないのは、前頭葉が不安の棲み家であるという事実である」(48)。「われわれ人間にとって、未来の予知ほど望まほしきものはない。・・・・・・そして恐らく、宗教のひとつの源泉も(死の意識および死後の運命をめぐって)」(49)。うーん、そういう考え方。さらには、釈迦やパウロの履歴を、大脳の右半球・左半球の働きから説明する。うーん。

「宗教が人間の無力感と依存心に対応していることは、すでにさまざまな形で証拠だててきた通りである。ただ、その無力感や依存心は、系統発生的適応の結果として人間の遺伝機構のなかにプログラミングされている自然本性に基づくものであり、フォイエルバッハやマルクス主義者が考えるように、社会構造の改革や科学的知識の進歩によって片のつくような簡単な代物ではない」(211)。

「欲求や願望を非合理的に充足する方法という点では呪術と同類だが、代償的あるいは仮構的にそうするのではなく、欲求や願望そのものを一度否定して他の生命エネルギーへ転化もしくは昇華させる方法の体系としての宗教は、技術的な対処方法の発達によって、たしかに出る幕を減らされてきた。呪術ともども、宗教の活躍する領域は今後も縮小されるだろう。だが、人間の個人的および社会的な生体恒常状態が崩壊の危険にさらされる混沌状態から人間を救うという宗教の種族維持的合目的性は、これまた人間が超人に進化して、「等しきものの永遠回帰」という虚無に耐え、ニヒリズムに陥らないための「運命愛」の英雄主義をわがものとするのでもなければ、とうてい消滅することはないだろう。宗教は人類が無慈悲な――というより、本来、慈悲とはなんの関係もない――原生的自然のなかで生き残るための適応手段の一つとして発生し、適応性が優れていたためにいよいよ高度に洗練され、ますます深く衝動化されてきた自然本性なのである」(218)。

うーん、分かるけどもなあ。それでも、哲学的人間学はもうちょっと読んでおきたい。

[J0655/260401]

井口真紀子『関わりつづける医療』

副題「多層化する在宅医の死生観と責任感覚」、勁草書房、2025年。これは現代日本の死生学にとって重要な研究。今日、死生観を論じようとするのであれば、医療現場の様子を踏まえなくてはならない。歴史学的研究ならともかく、いわゆる人文学領域内部でだけあれこれ現代の死生観を取りざたしている研究には力がない。対して本研究は、看取りにのぞむ在宅医たちの感覚や言葉を記述していて、とても貴重で有益。

第1章 なぜ在宅医の死生観に注目するのか
第2章 調査の方法と倫理的配慮
第3章 変容する医師の役割認識
第4章 意思決定に関わる―見える実践・見えない実践
第5章 死を超えて他者とつながる
第6章 在宅医の死生観と責任の感覚
終章 在宅医の語りから見えてくること

著者は、ご本人が家庭医療・在宅医療が専門の医師とのこと。

「地域の開業医として働くことは独特の経験である。孤独がついてまわることもその特徴」(210)であるという。
「患者と適切に距離をとり、標準化された合理的な治療を行うことが、現代社会において患者と穏当に交流する方法であり、医師としての職責を適切に果たすことでもある。しかし、生活経験の世界に入っていく在宅医療ではそれだけではすまないところがある。医師たちはおそるおそる医学的な合理性とは別の価値や意味であふれる生活世界に踏み出し、医学的な合理性も大切にしながらもお互いが納得するところを探していく」(261)。
 とりわけ、医学的な標準化された合理性をはみだしがちな、死の問題に直面したときには、というわけである。とにかく、本書が書きとめている在宅医たちの語りが印象的。

[J0654/260331]