ワン・ライン、2005年。あちこちでの書きものを集めたもの、一部は未発表原稿。

暮らしの歴史
 1 暮らしの歴史
 2 地方にいて思う民俗学の過去将来
 3 民俗誌と民俗史
半世紀前の採訪記
 1 山陰ところどころ
 2 東北と山陰
 3 薩南と山陰
今は昔の民俗誌
 1 吉賀奥蔵木村民俗誌
 2 平田市佐香地方民俗誌
 3 大根島・江島民俗誌
 4 隠岐島前・島後民俗誌
調査報告三題
 1 山陰における藤布の技術伝承
 2 出雲平野の農具と農法
 3 山陰海岸の刳舟
問題解説
 1 常民と常民性
 2 年頭に来臨する神
 3 イエの神とムラの神
 4 ハレとケ再考
 5 皇居前祈念・記帳のこと
 6 七十五という数
人と本〔馬庭克吉・大庭良美・奥原國男・谷川健一・戸井田道三・岡義重・橋浦泰男・坪井洋文〕

 「暮らしの歴史」では、中国地方の集落を対象に、家の本末関係の繋がりで、集落の全戸数を割るという数量的な分析の実験を行っている。
 「そうすると、なんと、美作・備前・備中では平均が2.0以上、因幡・伯耆・出雲・備後および隠岐では1.5ないし1.9、石見・安芸以西では1.4以下ということになったのです。これはまさしくさきの宗旨の違いと一致するものでした。すなわち同族の膨張度が高い所では密教が多く、中間の所で禅宗、低い所では真宗が盛んだということになってくるわけです。これはとうてい偶然の一致とは思われません。つまり、同族で固まる要素の多い所では、何か新風が入ってきて、それが便利でよいとわかっていてもなかなか改革に踏み切れない。ことに同族祭祀、先祖祭りというようなことに直接かかわる問題となるとなおのことでしょう。」(48-49)
 同族組織という条件が原因なのか結果なのか、両方あるとおもうが、試みとしては興味深い。

未発表原稿「吉賀奥蔵木村民俗誌」から。
「昔は入村者があると、庄屋が判定して空家に住まわせたが、その場合、入村者はいままでの姓を棄て、前任者の姓を名告るならわしだった。金山谷の安村氏も岩本姓で入ってきたが、安村の空家に入ったので安村に改めたといっている。もちろん維新以前の話である。入村手続としては、庚申の晩に二升も買う程度でよかったが、以後村仕事のあるような時には必ずまじめに働かねばならない。そうすると入会山にも勝手に入ってよかった」(109)。

おもしろい。山口弥一郎が報告している、津波のあとの家の復興の話を想起させる。墓や位牌の継承まではどうなっているか、わからないが。

そのほかあれこれ。旧平田市の小伊津と三浦の灘方では、コヤドとよばれる若者宿が昭和35年時点でも存続していた。大根島の薬用人参は明治20~30年代が全盛期で、一時期養蚕に押されたが、戦後はふたたび盛んになった。島後のシャアラ船は、だんだん派手になった。出雲平野の有名な高畝耕作「田麦掘り」は、じつは日本各地に存在した。

柳田國男の常民概念について。
「農民の場合のみをとってみても、明治初年にはもちろん、柳田翁が若くして自ら歩いていられた時代にはまだ全国民の80~70パーセントが農民であった。しかもその大半はまだ学問や理論とは無縁の存在であって、文字通り目に一丁字ない者さえ稀ではなかった。常民という語が使い出されたのはまさにそういう時代であった。だからそこには、この語を階層概念と考えるか文化概念と考えるかなどということは問題にならなかった。「常民」はまさに実態だったのである。ところが、今日ではその実態が大きく変わってしまった。」(322)

[J0542/241127]