Month: December 2023

ルース・ベネディクト『レイシズム』

1934年に『文化のパターン』を発表していたベネディクトが、『菊と刀』に結実する日本文化論に取り組む前の著作で、レイシズムという言葉が一般化するきっかけとなったものらしい。阿部大樹訳、講談社学術文庫、2020年。初出は 1940年だそう。

第一部 人種とは何か
 第一章 現代社会におけるレイシズム
 第二章 人種とは何ではないか
 第三章 人類は自らを分類する
 第四章 移民および混交について
 第五章 遺伝とは何か
 第六章 どの人種が最も優れているのだろうか
第二部 レイシズムとは何か
 第七章 レイシズムの自然史
 第八章 どうしたら人種差別はなくなるだろうか?
訳者あとがき
レイシズムを乗り越えるための読書案内

第一部では、いかに人種という概念が科学的根拠のないものかを示し、第二部では、レイシズムの歴史を概観する。

「人間の身体的特徴を戦争や大規模な迫害の根拠として挙げ、さらにそれを実行に移すまでになったのは、私たちのヨーロッパ文明が初めてである。レイシズムは西洋人がこのように産み落としたものである、と言い換えてもいい」(14)

「新約聖書は人間を二つに分けた。善をなしたものと、悪をなしたものとに。・・・・・・レイシズムはカルヴィニズムの再来である」(14-15)

「人種というものは確かに存在する。しかしレイシズムは迷信といっていい。レイシズムとは、エスニック・グループに劣っているものと優れているものがあるというドグマである」(118)

「何世紀にもわたって、主戦場は宗教であった。カトリック教会の異端尋問はただ異端派を次から次へと火炙りにしていただけでなく、同時に、多数派に特別な価値と正当性があることを確認する行為でもあった。このことを無視して人種問題を取り扱うことはできないだろう。現在争われているのが宗教ではなく人種であることには、そういう時代だからという以上の理由はない。異民族の迫害と異端者の迫害は瓜二つである」(170)

この時代にここまで言うのは凄い。「訳者あとがき」で阿部さんは彼女のセクシュアリティの問題に触れているが、性的なものかどうかは別にして、彼女の立ち位置にはいつも社会的マイノリティに対する共感があることを感じる。『菊と刀』の原型となった調査研究についても、戦争時の戦略のひとつであることを考えれば「幸運」という表現はそぐわないかもしれないが、このようにたぐいまれな人種主義批判者であるベネディクトが日本文化研究を担ったことや、そういう人物に敵国文化研究を委ねた当時のアメリカという国の見識には、ある種の感慨の念が湧いてくる。

[J0444/231231]

菅野覚明『柳田國男』

これは労作。「柳田の人と思想の全体を網羅する入門書として」というのが著者の意図だそうだが、初心者向けの入門書としては記述の密度が濃すぎるようだ(良い意味で)。柳田國男ミニ事典といえるような内容。世間に「俺の考えるヤナギタ」像が溢れる中、ご自分の業績がある名誉教授の方がなぜこのような、とふしぎになるくらい手堅い仕事だ。清水書院、「人と思想」シリーズ199、2023年。

はじめに――「柳田山」の道標
序章 「読書童子」國男少年                      
第Ⅰ章 官僚としての出発
第Ⅱ章 民俗学への道
第Ⅲ章 在野研究者への転身
第Ⅳ章 柳田民俗学の確立
第Ⅴ章 戦中・戦後の日々
終章 柳田の思想世界

たんに手堅いというだけでなく、民俗学を前提した評伝ではないところにも意味がある。つまり、「柳田民俗学」の継承ないし克服といった文脈に囚われない記述になっており、そのときどきの論敵とのやりとりも含めて、彼の思想が揺れてきた軌跡についても知ることができる。

このように行きとどいた評伝だからこそなおさらに、また、本書著者も指摘しているように、柳田の場合、「経世済民のための学問」という看板や彼のキャリアと、実際に彼が書いた作品とのあいだに奇妙な距離があることを改めて感じる。たとえば、人々の実生活の問題に直截に取り組んだ宮本常一の著述と比べてみよ。「柳田の社会改良論は、人間の自然性と内面性とが交錯する「夢」「まぼろし」の領域へのまなざしに裏打ちされている」(356)と、本書著者はまとめている。なんとふしぎな社会改良論であることか。

[J0443/231230]

立川武蔵の尊厳論

立川武蔵『死後の世界:東アジア宗教の回廊をゆく』(ぷねうま舎、2017年)から、著者による尊厳論を抜き書き。この書のもととなった連続講義は、おそらくは尊厳死問題を念頭に、あるキリスト教グループから「仏教における尊厳について話せ」という依頼があってのことだそう。

「尊厳を有するというのは、尊厳があるかどうかが問題になっている人以外に、その人に尊厳があるかどうかを評価する人、あるいはその人に尊厳があるかどうかを見ている人、いわゆる他人がいなければ成り立ちません。仏教が尊厳ということを扱ってこなかったのは、むしろ仏教の弱点だと思うのですが、仏教は元来、ひとりの世界を扱ってきました。ひとりの修行者なり実践者がどのようにして悟りに至るか、ということを扱っているのが仏教なのです」(15)。

「「尊厳」に関連して「尊厳死」という言葉がありますが、私はそのネーミングに何か引っかかるものを今まで持ってきました。なぜかというと、ある人が尊厳を持って死ぬという場合、その人の尊厳は他の人が決めていると考えられます。つまり「尊厳」が問題になる場合、自分が「私には尊厳がある」といってもしょうがない、と私には思えるのです。他者が「その人に尊厳があるか否か」を認めるかどうかの話になってしまうような気がしてならないのです。これが社会的なバランスの問題になることは、それはそれとして理解できるのですが。
「もしも「尊厳死」とは、尊厳を持って死ぬということで、「あの人は立派な人だった」とか「品位のある人だった」という形で死にたいということになるとすれば、それはまた別の問題が出てくるのではないでしょうか。みっともない死に方をしたくないといったも、亡くなるときには、体力も考える気力も何もなく死んでいくのですから、尊厳ということをとやかくいってもしょうがないのではないかとさえ思います。
「もしも「尊厳」という言葉を使うべきであるならば、社会が、あるいは他人がとやかくいうことはやめて、一つの生命に与えられた「働き」の時間が終わったときに「尊厳」という言葉を「呼び出す」とともに、それと並行してその人にふさわしい言葉を見つける努力をすべきでしょう」(21-22)。

 やーやー、文章の前後をみると、ご本人は留保をつけながら述べているが、ストレートで的を射た「尊厳死」批判のように、僕には思える。個人の人格や自己決定にこだわる西洋キリスト教的な根を持つ人が、ある種の尊厳死を自分で選びとるのであればそれはそれで、という気もするが、それはやっぱり一面、執着ではある。
 一方、「今この瞬間を生きる」という言い方が安易に使われることに対しても、僕はわりと批判的なのだが、著者のように「少なくともみっともない死に方をする覚悟はあります」(237)という構えの上で、「常に死に向かって時の中を「老いながら」走って」いくのであれば(244)、尊厳という価値づけを事後的で二次的な問題としながら、「今この瞬間を生きる」という言い方をすることは成り立つだろう。
 そのときの「今この瞬間を生きる」とは、死を遠ざけんがための言葉ではなくて、「今この瞬間に死を迎えている」という言い方と重なりあう種類のものである。

[J0442/231228]