副題「自由民権指導者の実像」、中公新書、2020年。

第1章 戊辰戦争の「軍事英雄」―土佐藩の「有為の才」
第2章 新政府の参議から民権運動へ
第3章 自由民権運動の指導者―一八八〇年代
第4章 帝国議会下の政党政治家―院外からの指揮
第5章 政治への尽きぬ熱意―自由党への思い
終章 英雄の実像―伝説化される自由民権運動

終章のまとめのところから。

「幕末の板垣は山内容堂や吉田東洋に抜擢され、その後土佐藩討幕派の中心人物として活躍した。戊辰戦争では英雄となり、軍事指揮官としての名声を確立する。明治初年、板垣は土佐藩の藩政改革を実施し、明治政治の参議となった。しかし、明治6年、明治7年の政変で権力闘争に敗北して下野、西南戦争が西郷隆盛の敗北に終わり、板垣も西郷に呼応しなかった結果、武力における政権獲得の可能性も消滅した。板垣は第三の道を選択、言論による自由民権運動へ邁進する。1870年末から80年代、板垣は自由民権運動の指導者として活躍した。特に、岐阜遭難事件と、その場での発言によって板垣は伝説的な名声を獲得する。しかし、板垣は外遊問題で挫折し、党の資金難と急進派への党勢を失ったために、自らが立ち上げた自由党を解党した。さらに、板垣は辞爵事件でも自らの意志に反して爵位を受けて多くの批判を浴び、雌伏の日々を余儀なくされる。1890年の帝国議会開会とともに、板垣は民権運動の指導者から政党政治家へと飛躍する。・・・・・・しかし、日清戦争後の伊藤内閣との提携失敗、民党を結集した初の政党内閣である隈板内閣の崩壊のなかで指導力を失い、星亨の台頭によって政界引退を余儀なくされた。政界引退後の板垣は社会政策を推進する一方、激化事件顕彰運動に関与し、『自由党史』の編纂に尽力した。また、台湾同化会の設立や大相撲の改革にも活躍の場を広げていった」(229-230)

本著著者は、こうした板垣を「一人五生」を歩んだ人物と評する。高知城の一番目立つところに板垣退助の銅像が建てられているが、江戸時代封建制の象徴である城の前に、戊辰戦争の殊勲者でありかつ「自由は死せず」の言葉で有名なこの人物の像が屹立しているのをみると、不思議な気もしてくる。

本書は、『自由党史』を一番の典拠とした民権運動の英雄としての板垣退助像を修正し、その実際に迫ろうとする。それはたしかに価値のあることで、近代史学の世界では評価の高い研究なのかもしれないが、士族であり元勲であった板垣が思想面でいつからどうして民権運動に傾倒していったのだとか、板垣退助自身の思想の内実や行動原理がほとんど全く分からない点では大いに不満が残る。これを読んでも、板垣に関するそのときどきの事跡と状況が分かるだけで、結局は板垣という人物がどういう人であったかは分からず、人名をタイトルに掲げた中公新書の一冊としてはいかがなものかと感じる。吉川弘文館の歴史文化ライブラリーあたりであったら、もう少し納得できるかもしれないが。

禁欲的に、社会的文脈のなかで歴史的事実の実証を進めていくことが歴史学者としての正しいあり方という立場なのかもしれないが、僕のような素人が最初に手にとる新書本がこういう感じでは、歴史学に興味を持つ人が減って歴史学界自体が縮小していったり、逆に巷間で好き勝手な人物解釈が横行したとしても、それはアカデミックな歴史学者にも責任があることだと思う。

[J0526/241020]