副題「商人と国家の近代世界システム」、創元社、2012年。

序章 近代ヨーロッパ形成を読みとく視点
  一 近代ヨーロッパはどのようにして形成されたのか
  二 「大分岐」論争――ヨーロッパとアジア、経済成長の分岐点
  三 産業革命の発生条件――なぜイギリスだったのか
  四 商人と国家の「近代世界システム」論
第一章 商人と国家の「近代世界システム」――グローバルヒストリーとの関係から
  一 グローバルヒストリーの潮流
  二 グローバルヒストリーと近代世界システム
  三 近代世界システムとヨーロッパ
  四 国際的な商人ネットワークと主権国家
第二章 商人ネットワークの拡大――アントウェルペンからロンドンまで
  一 アントウェルペンの役割
  二 世界最大の貿易都市アムステルダム
  三 ロンドンとアントウェルペン
  四 商人のネットワークからみた近代世界システム
第三章 国家の介入と経済成長――情報からみたオランダとイギリス
  一 モノの経済史から情報の経済史へ
  二 ディアスポラと情報伝播
  三 アムステルダムの役割
  四 ヘゲモニーの移行
  五 情報からみたグローバルヒストリーと近代世界システム
第四章 主権国家の成立――財政と商業からの視点
  一 主権国家をめぐって
  二 肥大化する国家財政
  三 国家と商業との関係
第五章 大西洋貿易の勃興とヨーロッパの経済成長
  一 大西洋経済の勃興
  二 大西洋貿易の特徴
  三 各国の大西洋貿易
第六章 近代世界の誕生――フランス革命からウィーン体制期の経済史
  一 イギリス産業革命期の経済成長は遅かった
  二 ヨーロッパ経済の変化
  三 商人ネットワークの変化
  四 ウィーン体制の経済的意味
終 章 近代ヨーロッパの形成――国家と情報と商人と
  一 近代ヨーロッパの形成過程
  二 情報が支えたイギリス帝国――「ジェントルマン資本主義」再考

「近代世界システム」を生みだした近代ヨーロッパはいかにして形成されたのか。著者はそれを、オランダにはじまる商人ネットワークの発展が、イギリスにおいては国家形成とともに進んだことに求めている。「商人と国家の織りなす歴史こそ、新しいタイプの近代世界システムである」(35)。

 本書出版当時の歴史学では、ウォーラーステインよりもグローバル・ヒストリー論の方が議論が盛んだというが、著者は、それが第三世界の収奪を軽視している点で、むしろウォーラステインの議論の肩をもつ。
 また、もうひとつのトレンドであるケネス・ポメランツ「大分岐」論は、近世以前まではヨーロッパは特別な立場になかった点を強調し、1500年から1800年の間に、ヨーロッパがアジアより優位に立つようになったことを主張するものである。しかし、諸種の「大分岐」論は、大西洋経済や石炭を用いた産業革命の影響を重視するが、それでは十分ではないと、本書著者はみる。
 ウォーラーステインに対する著者の批判も、「大分岐」論に対するものと近い。ウォーラーステインはたしかに、グローバルな視点から、原材料の輸入国を搾取・収奪する「低開発の開発」といった視点を提示した。しかし、「近代世界システム」の成立に対して重視されている産業資本主義とは、19世紀後半になってようやく台頭したものである。要するに、ウォーラーステインの「近代世界システム」という発想の方向性は正しくても、その成立条件を正確に捉えることができていない。具体的には、生産に対する流通という契機を軽視しており、国家や地域をむすぶ媒体としての、国際的な商人のネットワークの意義に、十分な配慮がなされていないとする。

 こうして本書著者は、近代世界システムを起動させた近代ヨーロッパの成立について、商人と国家というふたつの契機を強調する。商人が金融と情報のネットワークの担い手となり、それを大規模に展開するために必要なインフラを、国家が用意したのだというストーリーを描いている。
 国家がとくに戦争を通じてその存在を確立し、経済的ネットワーク(ひいては近代世界システム)を拡大させたという観点について、著者がヒントを得たとされているのは、スウェーデンの経済史家ラース・マグヌソンの議論である。マグヌソンは、「国家の見える手」として、国家が経済に介入することで産業革命が発生したと論じている。また、そのことは、各国が戦争遂行のために多額の借金をした結果、国家財政の規模が急速に拡大したことと関連しており、ジョン・ブルーワは『権力の腱』にて、そうした国家のありかたを「財政=軍事国家」と呼んでいる。

 以上、著者の議論の位置づけであったが、より具体的な内容として、まずふたつの軸のうちのひとつである、商人のネットワークの形成と変遷に関し、以下に抜き書きを並べておく。
 はじまりは、16世紀中頃にはじまった「アントウェルペン商人のディアスポラ」に置かれている。「アルトウェルペン商人が、ロンドンとアムステルダムに移住し、この三都市の関係が強まっていくことが、16世紀中葉~17世紀前半の北方ヨーロッパ経済では非常に重要な出来事であった。ロンドン、アルトウェルペン、アムステルダム間の商人の移動は大変活発になり、一つの経済圏が生まれたのである」(88)。
 16世紀後半から17世紀、アムステルダムの繁栄。「近世のオランダは宗教的寛容の地として知られ、とりわけアムステルダムでカトリックもプロテスタントもアルメニア人もユダヤ人――とくにイベリア系のセファルディム――もかなり自由に経済活動に従事できたのは、オランダやアムステルダムにとって何よりも商業活動が重要だったからである。・・・・・・アムステルダムを通じて、ヨーロッパのさまざまな宗教・宗派に属する商品の取引が可能になったと考えるべきであろう。それゆえ、同市には多種多様な商人の商業技術が蓄積された。なかでも大事だったのは、おそらくハンザとイタリアの商業技術の融合である」(105-106)

 戦争の時代、「危機の17世紀」。「フランス革命・ナポレオン戦争期のこの三都市〔アムステルダム、ロンドン・ハンブルク〕の関係がきわめて重要であった」(196)。ハンブルクもまた、もともとは「アントウェルペン商人のディアスポラ」にて発展してきた都市のひとつである。「18世紀になると、アムステルダムの地位は低下する。しかし、ヨーロッパ外世界、とりわけ新世界、ついでアジアとの貿易関係が強化される。そうなるとアムステルダムだけでは増大する貿易量・金融取引に対応することができず、ロンドンとハンブルクが台頭する大きな要因となった。ロンドンがイギリス帝国の拡大と結びついていたことはよく知られるが、ハンブルクは中立都市という利点を活かし、他都市が交戦中であっても、貿易を続けることができた」(197-198)。

「オランダの「黄金時代」は17世紀中頃であり、他の国々の中央集権化が進んでいなかったので、オランダは「ヘゲモニー国家」となれたのかもしれない。しかし他国が保護主義政策をとり、中央集権化を進めると、オランダの政治制度は時代にあまりそぐわなくなっていった」(203)。また、「ハンブルクとロンドンの競争は、ナポレオン戦争が終了した1815年になってようやく、ロンドンの優位で決着がつく。それは、経済活動に国家が強力に介入することが、イギリスに成功をもたらしたことも意味した。いいかえるなら、「財政=軍事国家」としての成功が、物流面においても、イギリスを勝利に導いたのである」(203)。

「電信の発達は、情報伝達スピードという点で、グーテンベルク革命以上の革新をもたらした。・・・・・・情報伝達方法の変化は、金融面でも根本的変革をもたらした。19世紀末に電信がアジアに普及しなければ、おそらくはロンドンを中心とする国際金本位制はこれほど速く世界を覆い尽くすことはできなかったはずである」(216-217)。しかるに、「イギリス帝国の金融市場の発展は、電信なしでは考えられなかった。しかもイギリスの電信会社は当初は民間企業であったが、1870年からは国有企業となった。20世紀前半にいたるまで、イギリスの電信事業は、政府主導型の公益事業であった。ここからも、政府が経済活動のインフラ整備に大きくかかわっていたことがわかる。ロンドンは世界の情報の中心であり、それゆえに金融の中心となりえた」(218)。

 商人ネットワークの展開を中心に抜き書きをしたが、もうひとつの軸とされているのは、近代国家の成立・膨張である。
 「近世ヨーロッパでは、「軍事革命」とよばれる現象がおこった。戦争のための出費が膨大になり、17~18世紀のヨーロッパでは、国家支出に占める戦費の比率が急激に上昇した。この時代のヨーロッパ諸国を形容するに際し、もっとも適切な用語は〔ジョン・ブルーワいうところの〕「財政=軍事国家」であろう」(123)。「近世ヨーロッパの財政需要は軍事支出の急増によってなされたものであるのだから、「軍事革命」と近代国家の出現とは表裏一体の関係にあった。国家の戦争遂行能力とは、かつて考えられていたように大規模な官僚制度を創出できる能力にかかっているのではなく、戦費調達能力にかかっているという考え方が、こんにちの歴史学界では支配的になりつつある。いわば、軍事革命が財政支出を増大させ、それが近代国家形成へのインパクトになったのである」(123-124)。

「主権国家の誕生により、「国家」の役割がそれ以前の時代と比べて非常に大きくなった。18世紀になると、イギリスに代表されるように、いわゆる国民国家が形成されていく。そして主権国家の生誕に際し、国境のない商人の世界を通して流れる資金が重要な役割を果たした。いわば「実態」としての国境なき商人の世界が、フィクションとしての「国民国家」の形成に大きく寄与したということができよう」(142)。「近代国家の形成には、主として軍事支出の増大にともなう資金の獲得が必要とされた。それは、国境のない商人の世界を通し、国境を越えて流通する資金の流通があってはじめて可能になったのである。・・・・・・その「その最大の成功例がイギリスであった」(143)。

「内国消費税が税の中心であったイギリスは、借金をしても、経済成長率以上に税収が増えたのでそれを返済することは比較的容易だったのに対し、地租に基盤をおくフランスは、経済が成長したとしても税収は増えず、借金の返済は容易ではなかったのである」(143-144)

 そのほかのメモ。

「長いあいだヨーロッパ最大の工業製品であった毛織物は、アジアのような暖かい気候には適さない。それに対し綿は、寒い地域でも、暑い地域でも着ることができる。しかも毛織物と異なり、何回も洗うことができる。そのために、世界史上初の「世界商品」となった。近年のヨーロッパの経済史研究ではこの意義が化論じられる傾向にあるが、当時、綿以外の商品では世界的な需要は発生せず、おそらく産業革命は発生しなかった」(26)

「おそらく一般的に考えられているのとは異なり、新世界からヨーロッパが輸入する商品が大きく増えたのは、ほとんどの国で、18世紀、とくにその後半のことにすぎなかった。・・・・・・しかしまた忘れてはならないのは、膨大な費用をかけて形成された大西洋経済なしには、産業革命もヨーロッパの台頭も考えられないということである」(155)。

「イギリスの産業革命は、あっという間に世界を変えたわけではない。かつて考えられていたのとは違い、産業革命期イギリスの経済成長率は、「革命」というほど高くはなかったのである。田園的なイギリスがあっという間に工場に取り囲まれた国になったという説は、こんにちでは否定されている。18世紀後半のイギリスの経済成長率は、ゆるやかなものであった」(184)。

[J0507/240831]