ムハンマドによる開教から、ウマイヤ朝、アッバース朝と続くイスラーム帝国の興亡をたどる。たんに歴史的事実を並べた説明ではなく、「ジハード」という概念とその多面性をライトモチーフにした意欲的な試みで、イスラームの理解の深化に与する。「興亡の世界史」シリーズの一冊で、原本は2006年刊行。講談社学術文庫、2016年。
はじめに──「夜陰の旅立ち」から
第一章 帝国の空白地帯
第二章 信徒の共同体
第三章 ジハード元年
第四章 社会原理としてのウンマ
第五章 帝都ダマスカスへ
第六章 イスラーム帝国の確立
第七章 ジハードと融和の帝国
第八章 帝国の終焉とパクス・イスラミカ
第九章 帝国なきあとのジハード
第一〇章 イスラーム復興と現代
あとがき
その後のジハード──学術文庫版のあとがき
参考文献
年表
主要人物略伝
通史として勉強になる一冊、くりかえし内容を確かめたい一冊であるが、ここではジハード関係の記述の一部だけを抜き書きしておく。
もともとジハードとは、奮闘努力を意味する。「ジハードを分類すれば、心の悪と戦う「内面のジハード」、社会的な善行を行い、公正の樹立のために努力する「社会的ジハード」、そして「剣のジハード」に区別することができる。私たちはジハードと聞くと、最後の剣のジハードを思い浮かべがちであるが、マッカ時代から継続的にあったジハードは、内面と社会のためのジハードで、剣を持って戦うことではなかった」(74)。
「帝国が確固としている時代は、ウマイヤ朝やアッバース朝の時代であれ、オスマン朝の時代であれ、剣のジハードは、国家が管理する防衛・軍事の一部であった。そこでは、個々人が勝手にジハードを遂行することは許されない。勝手なジハードは無用な紛争を生むため、むしろ国防を害し、領土の安全を脅かすものとなる。戦争をすべきかどうかは、ウンマに統治を任されている者が判断すべき事項なのである」(291)。「オスマン朝が敗北し、解体したあと、剣のジハードの管理権はどこへ行ったのであろうか。これが、現代におけるジハード論の最大の問題点である」(291)。「帝国なきあとのジハードは、公式の統御者なきジハードということになる。剣のジハードを復活させたい者が現れた時、それを誰が担うのかが、やがて大きな問題となる」(309)。
また、現代世界における「ジハード主義」を概観・理解するのに、文庫版あとがき「その後のジハード」がとても有益である。
あともうひとつだけ、ここだけ、メモ。
「ウマイヤ朝からアッバース朝への交代が、アラブ人が支配するイスラーム王朝から、より普遍的なイスラーム帝国への転換を意味することは、第六章でも論じた。ウマイヤ朝時代には、征服された地の他の民族からイスラームに改宗した人々は「マワーリー」と呼ばれ、アラブ人ムスリムを擬似的な保護者としてウンマに参入した。これは、彼らをいわば「二流ムスリム」扱いするものであった。このことに対する不満がウマイヤ朝を打倒するエネルギーの一部となっていた。これに対して、アッバース朝では、ムスリムは誰もが平等なウンマの構成員、とう原則が貫かれた。もちろん、この原理の基礎はマディーナにおいて、ムハンマド時代から正統カリフ時代に確立されたというべきであろう。しかし、その後、帝国が成立して行くにしたがって、アラブ的な紐帯が優先され、その原理は揺らぐことになった。また、ウマイヤ朝からアッバース朝前期の時代は、クルアーンと預言者ムハンマドによって確立されたイスラームとは何か、をめぐって議論がなされ、その内容が体系化される時期であった。その意味で、ムスリムを平等な存在として、ウンマを民族・人種・言語などを超越する共同体として適用するような社会が広域にわたって作られたのは、アッバース朝時代であった」(251-252);「言いかえれば、アッバース朝は、イスラーム的な融和の原理を世界帝国の実践的な原理として確立することに成功した。その原理が実践される社会的・政治的空間、つまり帝国の版図を築いたのは「剣のジハード」であった。しかし、剣のジハードはそれ自体は目的ではなく、宗教と社会を統合したウンマを建設するための方途であった、と総括することができる」(253)。
[J0462/240428]