Month: April 2024

小杉泰『イスラーム帝国のジハード』

ムハンマドによる開教から、ウマイヤ朝、アッバース朝と続くイスラーム帝国の興亡をたどる。たんに歴史的事実を並べた説明ではなく、「ジハード」という概念とその多面性をライトモチーフにした意欲的な試みで、イスラームの理解の深化に与する。「興亡の世界史」シリーズの一冊で、原本は2006年刊行。講談社学術文庫、2016年。

はじめに──「夜陰の旅立ち」から
第一章 帝国の空白地帯
第二章 信徒の共同体
第三章 ジハード元年
第四章 社会原理としてのウンマ
第五章 帝都ダマスカスへ
第六章 イスラーム帝国の確立
第七章 ジハードと融和の帝国
第八章 帝国の終焉とパクス・イスラミカ
第九章 帝国なきあとのジハード
第一〇章 イスラーム復興と現代
あとがき
その後のジハード──学術文庫版のあとがき
参考文献
年表
主要人物略伝

通史として勉強になる一冊、くりかえし内容を確かめたい一冊であるが、ここではジハード関係の記述の一部だけを抜き書きしておく。

もともとジハードとは、奮闘努力を意味する。「ジハードを分類すれば、心の悪と戦う「内面のジハード」、社会的な善行を行い、公正の樹立のために努力する「社会的ジハード」、そして「剣のジハード」に区別することができる。私たちはジハードと聞くと、最後の剣のジハードを思い浮かべがちであるが、マッカ時代から継続的にあったジハードは、内面と社会のためのジハードで、剣を持って戦うことではなかった」(74)。

「帝国が確固としている時代は、ウマイヤ朝やアッバース朝の時代であれ、オスマン朝の時代であれ、剣のジハードは、国家が管理する防衛・軍事の一部であった。そこでは、個々人が勝手にジハードを遂行することは許されない。勝手なジハードは無用な紛争を生むため、むしろ国防を害し、領土の安全を脅かすものとなる。戦争をすべきかどうかは、ウンマに統治を任されている者が判断すべき事項なのである」(291)。「オスマン朝が敗北し、解体したあと、剣のジハードの管理権はどこへ行ったのであろうか。これが、現代におけるジハード論の最大の問題点である」(291)。「帝国なきあとのジハードは、公式の統御者なきジハードということになる。剣のジハードを復活させたい者が現れた時、それを誰が担うのかが、やがて大きな問題となる」(309)。

また、現代世界における「ジハード主義」を概観・理解するのに、文庫版あとがき「その後のジハード」がとても有益である。

あともうひとつだけ、ここだけ、メモ。
「ウマイヤ朝からアッバース朝への交代が、アラブ人が支配するイスラーム王朝から、より普遍的なイスラーム帝国への転換を意味することは、第六章でも論じた。ウマイヤ朝時代には、征服された地の他の民族からイスラームに改宗した人々は「マワーリー」と呼ばれ、アラブ人ムスリムを擬似的な保護者としてウンマに参入した。これは、彼らをいわば「二流ムスリム」扱いするものであった。このことに対する不満がウマイヤ朝を打倒するエネルギーの一部となっていた。これに対して、アッバース朝では、ムスリムは誰もが平等なウンマの構成員、とう原則が貫かれた。もちろん、この原理の基礎はマディーナにおいて、ムハンマド時代から正統カリフ時代に確立されたというべきであろう。しかし、その後、帝国が成立して行くにしたがって、アラブ的な紐帯が優先され、その原理は揺らぐことになった。また、ウマイヤ朝からアッバース朝前期の時代は、クルアーンと預言者ムハンマドによって確立されたイスラームとは何か、をめぐって議論がなされ、その内容が体系化される時期であった。その意味で、ムスリムを平等な存在として、ウンマを民族・人種・言語などを超越する共同体として適用するような社会が広域にわたって作られたのは、アッバース朝時代であった」(251-252);「言いかえれば、アッバース朝は、イスラーム的な融和の原理を世界帝国の実践的な原理として確立することに成功した。その原理が実践される社会的・政治的空間、つまり帝国の版図を築いたのは「剣のジハード」であった。しかし、剣のジハードはそれ自体は目的ではなく、宗教と社会を統合したウンマを建設するための方途であった、と総括することができる」(253)。

[J0462/240428]

渡部秀樹『西蔵系出雲族の伝説』

出雲出身でチベットを知悉する登山家として、両地域の縁をたどる一冊。集広社、2024年。

プロローグ―偶然と必然、淘汰と進化
クーンブからチベット探査への道のり
チベットに勾玉がある?勾玉とチベット天珠
出雲神話から我が原風景をたどる
出雲大峯の観音様とチベットの仏縁
チベットの登山における信仰上の課題
山王寺のス(男)
矢島保治郎のチベット潜入とチベット国旗
矢島保治郎と勾玉
出雲族の口伝と「くまくましき」のこと
チベットからヒマラヤを越えた少年僧
エピローグ―アイデンティティとしての心の故郷は軸として縁起する

出雲の勾玉がチベットにわたったというストーリーについては、著者本人が「エビデンスとなる直接の記録は得られていない」「この部分は学術的な裏付けはないので歴史小説の範疇と思って読んでいただきたい」と述べているとおり。

ただ、チベットでの経験や出雲の言い伝えに裏付けられた著者が「幻視」している風景は魅力的だ。

大東町には山王寺という、隠れ里のような棚田の集落があって、そこがチベットの風景によく似ているのだという。著者の祖父はもともと山王寺の出身だそうで、その白寿(九十九歳)の祝いの席のこと。「伯父が山王寺神楽の録音テープがあるとラジカセを持ち出し、スイッチを入れた。四拍子六調子の神楽の奏楽が流れだした。突然、祖父は約八十年ぶりにかつて自分が使った面をかぶり山王寺神楽スサノオの舞(簸の川大蛇退治)を悠々と舞いはじめたのである。親族一同、祖父の舞いを見たのは初めてであった」(57)。なんと幻想的な場面であることか。

著者は、その出身地木次町熊谷こそが大国主の誕生地であるという説を、元・三刀屋高校長の影山重光氏の著書(『蘇れ古代出雲よ』)のうちに見いだす。「帰省しすぐに、父にそんな伝承の詳細を聞いたことがあるかと確認した。しかし肝心な核心に迫ると父は少し困ったような顔をし、「氏神である河邊神社はクシイナダヒメを祭神としている。ここでお産をされたからだと由緒にある。しかし、大国主命がここでお生まれになったというような話は、大社さん(出雲大社)の手前、あまりするものじゃない」という予想外の反応で口を閉ざしてしまった」(64)。

うーん、この伝承の真偽自体はともかくも、いかにもこれこそ出雲人という反応だ。伝承について実際には肯定しつつ、この気の使い方というか。そんなことが僕にとっては味わいぶかい。

こちら、河邊神社の様子。これもさりげなく、なんとも言えなく良いたたずまい。
https://www.google.co.jp/maps/@35.2657198,132.9012032,3a,75y,297.27h,92.42t/data=!3m6!1e1!3m4!1s8lf-8Ql3xk0kb-J2fBtuBg!2e0!7i16384!8i8192?hl=ja&entry=ttu

[J0461/240425]

大山眞人『瞽女の世界を旅する』

本書出版時、78歳ほどになる著者は、高田瞽女の世界を追って1977年~1983年に「高田瞽女三部作」を出版した著述家。半世紀を経て、当時を振りかえりながら記された1冊。その時間の分の距離感と、逆に体験や記憶が融合した感覚と、奇妙な耽溺を感じる文体。当時、「高田瞽女の世界を壊したのはあなただ」という声も投げつけられたそうだが、距離の取り方が不安定で、だがしかし、このように文章として記録は残った。平凡社新書、2023年。

 序 高田瞽女とは
第一部 春を旅する
 第一章 春を旅する
 第二章 夏の旅
 第三章 秋の旅から冬の旅へ
 第四章 それぞれの旅路
第二部 取り憑かれてしまったわたしの体験記

本書から歴史的なことを拾えば、瞽女の伝統的な生活が衰退してしまったのは、農地改革によって、彼女たちに「瞽女宿」を提供していた各地の大地主が没落してしまったからであるらしい。その衰退の様子を、瞽女目線でリアルに描いている。ある瞽女の言葉によれば、こうした農地改革もまた「戦争の哀しさ」であり、落ちぶれた人もまた「戦争の犠牲者」なのだという。

なお、大山眞人さんの「高田瞽女三部作」は、国立国会図書館デジタルコレクションの送信サービスにて読むことができる。

『わたしは瞽女:杉本キクエ口伝』(音楽之友社、1977年)
『ある瞽女宿の没落』(音楽之友社、1981年)
『高田瞽女最後』(音楽之友社、1983年)

[J0460/240420]