副題「長州藩天保改革における「淫祠」解除政策について」、河合正治編『瀬戸内海地域の宗教と文化』雄山閣、1976年、225~258頁。
はじめに
1 「淫祠」解除政策の展開
2 「淫祠」解除政策の歴史的諸前提
3 「淫祠」解除政策の歴史的意義
長州藩では、天保改革の一環として、藩主毛利敬親のもと、村田清風の「淫祠之詮議」プランの提出を皮切りに、1838年(天保9)より「淫祠」解除政策が実施された。解除とは、(おそらく三宅の表現で)廃するということである。
「「淫祠」解除政策は、藩の御根帳に登録されていない寺社堂庵、小祠・小庵・石体・金仏=「支配体制秩序外信仰」対象を解除し、一方で、御根帳入寺社堂庵=「支配体制秩序内信仰」対象を再編成し、そのことによって、民衆の宗教活動を統制し、藩の支配体制秩序の強化を意図するものであった。その具体的展開は、藩の寺社所によって行なわれ、村落においては、村役人層が解除の実務を担当した。「淫祠」解除政策に対して、民衆はその政策を容易に受入れず、存続嘆願を行ない、あるいは不穏な状況を現出せしめて、政策進捗を遅延させた。そして、「淫祠」解除後も不穏な状況を現出せしめて藩側に一定の譲歩を強い、あるいは統制の網の目をくぐって「淫祠」再建を行なった。」(252)
1843年(天保14)7月の中間報告では、「御根帳入寺社堂庵」は3376で、「詮議半途社堂庵」が802、「解除済寺社堂庵」が9194、「詮議半途石体金仏」が9169となっている。これを単純計算すれば、13372カ所あった寺社堂庵のうち、69%がこの5年間で廃されたことになる。翌1844年(弘化元)1月になると、「解除済寺社堂庵」は9666、「解除済石体金仏」は12510となっている。
帳簿「御根帳」に記載されていない「淫祠」の存続を人びとが強く申し出た場合、帳簿に記載されていて信仰が薄れている寺社から「引寺」・「引寺」をして名義を移すことで許可をする場合もあったとのこと。こうして、藩は人心と妥協をしつつ、帳簿を介した管理をすることができたと。こうした藩の統制は、基本的に、明治維新まで続く。
「天保期における長州藩民衆は、天保二年一揆にみられるごとく、藩体制を動揺させていた。その場合、呪術信仰の問題は、民衆が一揆に蜂起する過程において、また一方で、藩あるいは村役人層が一揆を鎮静させる過程において重要な機能を果たした。したがって、藩は、一揆において打毀を受けたという性格を持つ村役人層との共生関係において宗教統制を行なわなければならない課題に直面していた。」(252)
「皮騒動」にみられるように、呪術信仰が一揆のきっかけともなった。おもしろいのは、「一揆を鎮静させるのに殿様祭の執行ということが、一定の役割を果たしていることが注目される」という指摘(250)。「藩側の一定の妥協によって要求が受理され(要求の受理は一時的なものであり、後にそのほとんどが反古にされるが)、あるいは御恵米が下付されて、それを感謝した民衆によって殿様祭り〔*ママ〕が行なわれ、一揆が鎮静してしまうのである。この殿様祭は、日常的年中行事の中で行なわれる場合においては、村役人層の主導において行なわれるものであるから、以上、殿様祭の挙行も村役人層の工作において行なわれたものと推定される」(250-251)
「淫祠」解除の話もおもしろいが、この殿様祭の話もおもしろい。信仰をもって信仰を制するというか。日本における政治責任追及の一パターンとして、天皇制と戦争責任の話にも通じるところがありそうだ。
国立国会図書館デジタルコレクション
>河合正治編『瀬戸内海地域の宗教と文化』雄山閣、1976年.https://dl.ndl.go.jp/pid/12286693/1/116
>〔関連資料〕沖本常吉編『幕末淫祀論叢』マツノ書店、1978年.https://dl.ndl.go.jp/pid/12261045
[J0556/250126]
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