仲澤紀雄、みすず書房、1978年。原著は1966年。ジャンケレヴィッチは、ロシア系ユダヤ人で、父親はフロイトや精神分析をフランスに紹介した人だそう。復刊時の訳者解説によると、ドイツ軍占領下のレジスタンス以降、ずっと行動参加をした哲学者としても人気を得て、この本も成功を収めたとのこと。
やたらに一人称の死、二人称の死、三人称の死の議論ばかり切り取られるが、それが展開されているのは最初の序章の部分であり、最初の補助線くらいの位置づけ。
新しいことは書かれておらず、まとめてしまえば一文で終わることを長々と、繰り返し繰り返し、冗長に語る。だが、なじみがあるだけに陳腐になりがちな主題である死に関しては、このペースで読むことにも意味があるとも思う。電車のなかとか、最短で読む必要がないシチュエーションで。そういえばそうだったと、深く再確認できることは多い。まあ、社会科学の論文を読むようには、死のことを考えることができないのは、当然といえば当然。
〔*括弧内は勝手に付した注記〕
死の神秘と死の現象
第1部 死のこちら側の死
1 生きている間の死
2 器官‐障碍〔生の条件であり妨げであるという死の性質〕
3 半開〔死の事実は確実だが、その到来は不確実〕
4 老化
第2部 死の瞬間における死
1 死の瞬間は諸範疇の外にある
2 死の刹那のほとんど無
3 逆行できないもの
4 取り消しえないこと
第3部 死のむこう側の死
1 終末論流の未来
2 後生の不条理さ
3 虚無化の不条理さ
4 事実性は滅びることはない。取り消しえないものと逆行できないもの
「あらゆる病気が死に至りうるとしても、死すべき運命は、それ自体は一つの病気ではない。・・・・・・死は健康の病いなのだ」(55)。
「苦労性の人間にとっては、神経痛や税金こそまったくの天恵というものだ。なんのことはない婉曲話法のようなもので、会話をそらし、饒舌を保って、われわれが自分の悲惨に考え及ぶのを妨げ、拡散している苦悩を特定の点に位置づける」(58)。
これは本当そうで、死を考えることをまぎらわすものは、具体的にはあれこれの健康や病気の情報であり、もうひとつはお金だろう。ジャンケレヴィッチは、死の性質について「死は、普遍的に人間の条件であるもの一般に内在している」(57)と述べているが、金銭も、ほとんどあらゆる事柄に関わっていると考えると、死に近い性質を持っている。ただ、死を避けることだけは金銭で購うことはできない。以下も見よ。
「しかも、すべてがわたしに死について語る。なにも死に関係がない。しかも、すべてが死に関係がある。もっとも、いずれにしても同じことだ。神の場合も、まさにそうだ」(60)。
「神経痛や税金こそまったくの天恵」のところで考えさせられる話。一般に、年をとればとるほど、死に近づくと考えられている。しかし、中高年が考えていることといえば「神経痛や税金」なのであって、かえって「中二病」のように死のことを考えている青少年の方が、まだしもリアルに死のことを考えられているといえないか。
「死には、神の否定性のそれ自体否定的な転位が基底にある。死は、同時に、本質の端的純粋な否定であり、存在の端的純粋な否定だ。死は、この点、二重に反神だ」(73)。ジャンケレヴィッチの死の思想は、宗教や神を措定することを拒否しているという意味での「哲学的」思想である。もちろん交霊術の類いにもひややか(cf. 399)。哲学的立場から捉えられた死論。なぜかというべきか、サルトルへの言及はなかった気がするが。多分。
「死者はけっして第二人称となることのない第三人称だ。死者は、永遠に第三者だ。そして、他方、死者はだれに対しても〝おまえ〟であることはない。死者は話法のいかなる枠とも縁がなく、普遍的に〝かれ〟であり、決定的に〝かれ〟だ」(274)。
「郷愁に把えられた者は、両立できないものをも含めて、すべての利点を同時に併有し、なにものをも失わず、未来の現在化という冒険や斬新さをも棄てずに過去の蓄積を保存しようとし、成人のままで若返り、経験と無邪気さとを併せもとうとする。要は、存在することと存在したことをすべて望むのだ」(323)。
「考えられないことに敬意を表わすようにみえる心霊主義は、むしろ一つの交霊術、あるいはせいぜいアニミズムだ。実際には、超自然的な存在様態を多く語る者ほど、その超自然性を心の底から納得してはいないものだ。手に触れることのできるものの実体性に対するわれわれの執着が虚無と後生の葛藤を解決不可能なものとし、後者こそが前者を免れる唯一の方法だと信ずるようにわれわれを仕向ける」(434)。
いやいや、これはホンマやで。ジャンケレヴィッチ側の立場から見るならね。僕も基本的にはこちらなわけだが。
前の章でも書いていたことのまとめ部分だが。「死が叙述のいかなる範疇にもはいらないこと、どこ、どのように、いくらという経験界の過程に有効な質問は、越経験的な絶滅が問題のときには、知性にはまったく意味を失うことをわれわれは確認した。交代、変形あるいは遍歴、移行、転身、変身と呼ばれるものは、連続に適用されるが、根源的虚無化には適用されないとわれわれは言った。死は状態の変化でも、形の変化でも、住居の変化でもない。死はまったく一つの変化ではない」(435)。
思惟は死をこえているが、思惟する存在は死ぬ(448)。
「個人の死とは、いわばデカルトの懐疑の逆転だ。デカルトにおいては、すべては失われている。ただ、疑うことのできない思惟を除いて・・・・・・。そして、いまは逆に、すべてが超意識によって難破から救われている。すべてだが、まさに本質的なものを除いて・・・・・・」(461)。
「つまり、結局は、生そのもの、生きる喜び、そして、生きた自然性の超自然性の中に、われわれは滅びることのない実存の証しを見出すことになろう。・・・・・・至福な充全性の肯定に対してノンというのは、哲学的倒錯の一つの形ではないだろうか」(494)。結局・・・・・・。
「もし虚無化の事実が無と化されないならば、ましては、生きた生という事実は無と化すことができまい」(497)。そうねえ、どうかな、そうかもしれない。
[J0546/241209]
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