Month: February 2025

エイドリアン・オーウェン『生存する意識』

副題「植物状態の患者と対話する」、柴田裕之訳、みすず書房、2018年。
もちろん、意識の科学の話としておもしろい本だが、推理小説的な読み物としてのおもしろさもたっぷりなので、読む予定の人は、「ネタバレあり」の以下感想はご覧にならない方が吉。

プロローグ
第一章 私につきまとう亡霊
第二章 ファーストコンタクト
第三章 ユニット
第四章 最小意識状態
第五章 意識の土台
第六章 言語と意識
第七章 意志と意識
第八章 テニスをしませんか?
第九章 イエスですか、ノーですか?
第一〇章 痛みがありますか?
第一一章 生命維持装置をめぐる煩悶
第一二章 ヒッチコック劇場
第一三章 死からの生還
第一四章 故郷に連れてかえって
第一五章 心を読む
エピローグ
日本語版のための追記――原著執筆後の進展

脳科学研究者の著者は、脳の活動のスキャン技術の向上を背景に、これまで植物状態とされてきた人の多くに、実は意識があったという事実を明らかにしていく。それは、生と死のはざまにある「グレイゾーン」の探究でもある。

「患者たちは植物状態のたぐいのカテゴリーに一まとめに分類されるので、みな何かとてもよく似ているという誤解を生むが、現実には、患者は一人ひとり完全に異なる」(63)。

興味深い事実のひとつとして、植物状態にあるとされている人でも、家族だけにはその人が意識を有していることが分かるケースがあることだ。それは、長年その患者を詳細に観察している医師でも分からないケースでも起こっている。そして、そうした家族がどうして意識の存在を感得できているのかは、本書の最後まで謎とされている。

それから、生活の質の問題。
「〔スティーヴン・〕ローリーズのチームは、閉じ込め症候群の患者(意識はあるものの、瞬きすること、あるいは目を縦に動かすことでしか意思を疎通できない人々)91人を調査した。彼らは患者に病歴や現在の状態、人生の終え方に対する態度についての質問表に答えてもらった。・・・・・・・ほとんどの人が立てるだろう予想とは裏腹に、患者のかなりの割合(回答した人の72パーセント)が、幸せだと答えた。そのうえ、閉じ込め症候群になってからの時間が長いほど、報告される幸福度も高かった!」(204)。安楽死を望んでいると表明した人は、7%だという。論文名は、”A Survey on Self-Assessed Well-Being in a Cohort of Chronic Locked-In Syndrome Patients,” British Medical Journal Open, 2011.

推理小説的なおもしろさといったのは、身体的反応のない患者の意識を探る具体的な手段を編み出すところだ。たとえば、患者のYes/No の意思を確かめるのに、それを直接には感じとることはできないので、「Yes であればテニスをしているところを想像してください」と指示する方法をつくっている。そのときには、脳の特定の一部が活性化することが確かめられるからだ。それもテニスであることに意味があり、想像上で動かす身体の箇所がだいたい同じだからだという。

さらに別の方法として編み出されたのが、ヒッチコックの映画『バアン!もう死んだ』を見せるという方法。この映画は観客に同一の強い感情反応をよびおこすシナリオや演出になっており、これを見せたときの脳の反応で、健常な人の思考と同じ思考をもっていることが確かめられるのだと。また、高度な推測や推論をもとに特定の感情が喚起される場面も含まれている。

これらの実験結果から、これまで植物状態とされてきた人の少なくとも15~20%は、実は完全なる意識をもっていると推測されるという。しかし、奇跡的に回復した人が、完全な植物状態でMRIを受けたときのはっきりした記憶を持っていた事例も紹介されており、残りの80~85%のなかにもなお意識のある人がいることが示唆されている。

著者は「意識は、互いに向かって発火するニューロン間の結合に還元できると私は確信している」と述べているが、ここで紹介されている実験結果から分かることは、少なくとも現時点の技術で追跡しうる脳神経の活動の有無と、意識の有無とは完全には一致していないということである。

こちら、イギリスBBCのドキュメンタリー「マインド・リーダー」(2012年)。アップしているのは本書著者のようだから、著作権もだいじょうぶそう。

こちらは、エイドリアン・オーウェンのウィキペディア・ページ。
https://en.wikipedia.org/wiki/Adrian_Owen

[J0568/250227]

佐久間亜紀『教員不足』

副題「誰が子どもを支えるのか」、岩波新書、2024年。この新書は、いま社会に必要とされている仕事。たいへんしっかりした内容の労作で、ありがたい。

第1章 教員不足をどうみるか―文科省調査からはみえないもの
第2章 誰にとっての教員不足か―教員数を決める仕組み
第3章 教員不足の実態―独自調査のデータから
第4章 なぜ教員不足になったのか(1)―行財政改革の帰結
第5章 なぜ教員不足になったのか(2)―教育改革の帰結
第6章 教員不足をどうするか―子どもたちの未来のために
第7章 教員不足大国アメリカ―日本の未来像を考える
第8章 誰が子どもを支えるのか―八つの論点

まずは、教員配置の複雑なしくみを説明。現在の教員不足をもたらした諸要因の説明を読んで、思い浮かぶ感想は、ここ四半世紀の教育政策が愚かすぎるということ。逆に、それまでの戦後日本の教育政策にかんして感じるのは、個々の家庭や地域の事情の格差を埋めるべく、相当理想主義的に進められてきた印象だが、それが現実的にも良い結果をもたらしてきたのだな、ということ。理想論を否定し、表層的な「現実主義」で押しとおして、「現実」にもマイナスの結果にしかならないのでは本当にしょうもない。

じつは、本書の内容で一番驚愕したのは、アメリカの学校教育の惨状。よくこれで国が成り立つなと思うレベル。教員に対する社会的リスペクトが不足していることが大きく影響するとともに、社会的分断が教育現場に持ちこまれて、むしろ学校こそがその分断の最前線になってしまっているのだという。安い労働力を求めた結果としての教職の女性化も、長くアメリカの教育の特徴であるらしい。ただし日本の教職員数は、OECDでもっとも低く、そのアメリカの教職員の六割ほどしかないとのこと。

[J0567/250227]

『荒木飛呂彦の新・漫画術』

副題「悪役の作り方」、集英社新書、2024年。

第1章 漫画の「基本四大構造」を復習&さらに深掘りする
第2章 超重要! 悪役の作り方の基本
コラム 『ジョジョ』歴代敵キャラについて
「悪役の作り方」実践編 その1 岸辺露伴の担当編集者・泉京香の作り方
「悪役の作り方」実践編 その2 一から悪役を作ってみる
第3章 漫画の王道を歩み続けるために
番外編 『The JOJOLands』第1話とコマ割りについて

歴代の敵キャラの設定の話などしていて、じつはこの漫画にも時代性が強く出ているんだなと。連載開始の1986年はバブルの頃。それがすぎ、1992年の第四部の頃になると、バブルがはじける。「アゲアゲのキャラクター」であったDIOにかわって、「日常に潜むヤバい奴」としての吉良吉影が悪役に。舞台も等身大の日常生活になると。

「冠婚葬祭で「奇妙なキャラクター」を探す」。
「「自分の周りにはキャラクターの参考になるような、おもしろい人はいないなあ」というときは、日常で目にする人たちを深く観察し、見た目や癖、言葉遣い、しぐさなどをとらえていきます。僕のお薦めは、冠婚葬祭での人間観察です。なぜなら、冠婚葬祭のような儀式には、服装や振る舞いなど「この立場の人はこうすべき」「こういう場面ではこう行動しなければならない」というマナーやしきたりがあって、そこから外れている人からは「この人、なんかおかしいぞ・・・・・・?」ということがわかりやすく浮かび上がってくるからです。結婚式に行くと、スピーチで新郎新婦のことはほとんどしゃべらずに、自分の話ばかりしている人、大事なお祝いの場に平然と遅刻してくる人、主賓なのにびっくりするくらいラフな格好で現れる人など、いろいろな「ヤバい人」を目撃します。同じテーブルに座った人たちを観察するだけでも、「この人、全員に料理が配られる前にさっさと食べ始めているぞ」「さっきからパンのおかわりばかりしてるな」等々、参考になりそうなネタが見つかるものです」(146)。

そうそう、この人、人間観察に長けているんだよね。冠婚葬祭とはむしろ、「ヤバい人たち」をあぶりだすための文化装置と捉えることもできる。

「もし、「成り上がっていくために漫画を描こう」「ちやほやされたいから漫画家になろう」という人がいたら、そういうハングリー精神、あるいはアメリカン・ドリームは漫画の世界ではただの幻想にすぎないし、「そんなふうに漫画を描いてなんの意味があるのか?」と聞きたいです。おそらく自分のためだけに漫画を描いていると、自惚れの世界に入っていって、「ちやほやされて嬉しい」とダメなところに足を突っ込んでしまうのだと思います。漫画家になるのであれば、もっと漫画を描くことそのものにちゃんと向き合わないといけません」(179)。
 圧倒的な王道感。教育的な意図もあるかもしれないけど、たぶんぜんぜん嘘ではない。ご本人には当たり前になっているかもしれないけど、受けとる人によってはなかなか厳しいお言葉。

「表紙の絵を描くときは、「せっかく選んでもらったのだから、雑誌の売れ行きがよくなるような絵を描かないと」と力が入りますし、単行本でも「書店で平積みされたとき、隣の並んでいる本に負けたくない」と、一生懸命、表紙の絵を描きます。何が「負け」かというのはともかく、いろいろな本が並んでいる中で「沈んでいる」ように見えるのは嫌なのです」(187)。

たんなる芸術家以上の、漫画という仕事に対するこの絶妙なセンスこそ、荒木先生すぎる。

[J0566/250224]