Month: April 2025

鈴木宏昭『私たちはどう学んでいるか』

ちくまプリマー新書、2022年。実験にもとづく認知科学から、学習や上達の過程を探る。佐伯胖さんの弟子筋の方で、生田久美子さんの本なども引用。雑にまとめてみて、学習や上達は複合的な過程の総合からなる、と言ってみる。

第1章 能力という虚構
第2章 知識は構築される
第3章 上達する―練習による認知的変化
第4章 育つ―発達による認知的変化
第5章 ひらめく―洞察による認知的変化
第6章 教育をどう考えるか

メモ。

言語隠蔽効果。「コトバは、全体性を持つような場面や対象、また直感的な理解を表現するには適していない。そうしたものをコトバで表現すると、認識が阻害されることもある。たとえば人の顔や声はコトバで表すことは難しい。これを無理にさせるとどのようなことが起きるかといえば、それらの認識の低下なのである。」(60-61)

スキルの上達過程で一時的な後退や停滞が起きるのは、すぐれた技法を取り入れたときに、その技法を、操作過程の全体と調整させる過程が必要だから、らしい。「スキルの実行のある特定の時点で、同じ結果を生み出す操作が複数存在している。操作方法には、それが実行される環境の要素が含まれている。また自分の身体、禅との操作も環境となる。操作方法と環境との間の相性が揺らぎを生み出す。その揺らぎをバネにして新しいスキルが創発する」(106)。

スモールステップ式教育への批判。「遠隔項の存在を知らずに近接項に特化した学習が行われる場合には、結果として形だけの結果の模倣が生み出される。これは融通の利かない、転移の可能性がないものになる」(200)。「チェックリストなどの「きちんと教える」教育は、やっている方も受けている方もなんとなく満足する。「ここまでやった」、「ここをクリア」、「次の課題はなんだ」などという雰囲気に浸れる。しかし、これは「教育ごっこ」に陥る危険性は高いと思う」(201)。マイケル・ポランニーへの言及、徒弟制の意義への着目。

模倣の意味。「佐伯胖によれば区別すべき2つの模倣がある。一つは「結果マネ」というものである。これはとにかく同じようにやること自体が目的となる模倣であり、「最初はこれ」、「次はこれ」・・・・・・のように、近接項レベルの模倣を生み出す。もう一つは「原因マネ」である。これはその技が生み出される原因つまり遠隔項を真似ることで、結果として演技自体を真似ることになる。これは近接項を生み出す遠隔項へ焦点を当てた模倣と言えるだろう。生田は前者を「形(かたち)」、後者を「型(かた)」と読んで区別している」(204-205)。「こうした二つの異なるマネを生み出すのは、共有経験の有無である」(205)。

[J0582/250430]

橘木俊詔『資本主義の宿命』

副題「経済学は格差とどう向き合ってきたか」、講談社現代新書、2024年。格差論で著名な筆者、各種のデータも紹介しつつ、学説史が7割くらい。「100分でわかる格差の経済学史」的な、便利な概説書として読むことができる。

第1章 格差の現実
第2章 資本主義社会へ
第3章 資本主義の矛盾に向き合う経済学
第4章 福祉国家と格差社会
第5章 ピケティの登場
第6章 ピケティ以降の格差論
第7章 経済成長か、公平性か
第8章 日本は格差を是正できるのか

学説史の概観のあと、後半ではピケティの理論を大きく取りあげている。ピケティ入門としても手軽な一冊。

[J0581/250430]

江森百花・川崎莉音『なぜ地方女子は東大を目指さないのか』

光文社新書、2024年。難関大学に挑戦しにくい環境に置かれている地方女子。彼女たちを「呪縛」から解放しようと、その環境に関する調査研究を実施。そのこころざしはすばらしいが、内容には大いに不満だ。ここに書かれているのは、どこまでも地方大都市圏の子の話。より厳しい環境にあるはずの、小都市や中山間地に生まれた本当の地方女子は、ここでも、またしても、置いていかれる。

第1章 課題の背景
第2章 なぜ地方女子は難関大学を志望しないのか
第3章 原因の探究(1)資格重視傾向
第4章 原因の探究(2)低い自己評価
第5章 原因の探究(3)安全志向
第6章 保護者からの期待のジェンダーギャップ
第7章 「女子は地元」に縛られて
第8章 解決への道のり

資格志向の話や、医学部志向の話、ロールモデルの話など、本書にはたしかに重要な指摘も含まれている(ところでここで扱っているデータは、医学部看護学科も入っているのだろうか。気にはなる)。しかしだ。

「地方」といいつつ、本書では地方大都市と地方小都市や中山間地のちがいがまったく意識されておらず、地方大都市が前提となっていて、地方小都市や中山間地の状況がまったく理解されていない。札幌と帯広と遠軽を一緒にして「地方」と括ってしまっていいのだろうか。神戸と鳥取とでも、どれだけ別世界であることか。

もうすこし具体的に。本書のメインとなっている調査の対象は偏差値67以上の高校らしいが、本当の地方では、自宅から通える範囲にそういう高校すら存在しない。

浪人回避の原因をおもに本人や保護者の意識の問題として語っているが、本当の地方には予備校はなく、あったとしても難関校に特化した予備校なんてどこにもないのだ。県外の地方大都市に出て、一人暮らしや寮住まいをしないと、まともな受験対策が受けられない。だから、「浪人のコストを気にする傾向」なるものは(第一義には)心理的・社会関係的なものではない。地方女子(および地方男子)にとって、お金の問題をはじめ、浪人のコストは「実際に」何倍も大きいのだ。そんな本当の地方では当たり前の事情さえも配慮せずに、社会心理の問題として挑戦を煽ってはまずいでしょう。

著者たちは静岡と兵庫のご出身とのことで、東大に進学してみて首都圏出身の学生とのあいだに大きな意識のギャップを感じたそうである。北海道や東北、山陰や四国といった地域の小都市や中山間地の若者は、同じくらいのギャップ、もしかしたらもっと大きなギャップと疎外感を、地方都市出身の学生とのあいだに感じていることはまちがいない。大きな本屋もなければ予備校もない、そもそも近隣に大学もない、そんな場所はいくらでもある。「地方女子」という看板をかかげてそのエンパワーメントをめざすなら、ぜひ著者たちには、地方大都市圏と小都市・町村部の現実のちがいも視野に入れた調査研究を進めてもらいたい。

[J0580/250422]