Month: March 2022

平賀英一郎『温泉津誌』

報光社、2021年。

内容:
牛鬼/影わに/河童(エンコー)/タヌキ・キツネ/猫/龍/鷺・鹿/むくりこくり/えびす/生き神/タタラ/旅人たち/石見銀山の世界遺産登録/ケーレシ・チョマ・シャーンドル/旅人たち・補遺

タイトルから想像される内容とはだいぶちがって、温泉津や石見の伝承を取りあげて、日本各地や世界の神話にまで言及していく、比較神話学のような内容。「南方翁に倣って」とのこと。証明の難しい世界のことであるが、多くの書物を渉猟して、しかも丁寧に出典が示してあるので価値がある。

いったいどういう人だろうと思ってちょっと調べたら、中公新書で『吸血鬼伝承』を出版していて、東欧の伝承にも詳しい方らしい。なるほど。書いておられるブログもおもしろそうなので、これから覗いてみたい。
> ブログ・石陽消息

島根県関係の郷土史本には、レベルの高いものや特色のあるものが多く含まれている。それだけ人物がいるということでもあるだろうし、また島根の歴史や伝承には豊富な材料があるということかなと。

[J0255/220328]

田中康弘『山怪』

ヤマケイ文庫、2019年、原著2015年。

序文
Ⅰ 阿仁マタギの山
狐火があふれる地/なぜか全裸で/楽しい夜店/生臭いものが好き/狐の復讐/見える人と見えない人/狸は音だけで満足する/消えた青い池/人魂、狐火、勝新太郎/親友の気配/辿り着かない道/蛇と山の不思議な関係/汚れた御札/マタギの臨死体験/叫ぶ者/白銀の怪物

Ⅱ 異界への扉
狐と神隠し/不死身の白鹿/来たのは誰だ/もう一人いる/道の向こうに/響き渡る絶叫/僕はここにいる/謎の山盛りご飯/山塊に蠢くもの/鶴岡市朝日地区/出羽三山/鷹匠の体験/奈良県山中・吉野町/
ツチノコは跳び跳ねる/足の無い人/只見町/山から出られない/
行者の忠告

Ⅲ タマシイとの邂逅
帰らない人/死者の微笑み/迎えに来る者/ナビの策略/椎葉村にて/
テントの周りには/宮城県七が宿町/なぜか左右が逆になる/不気味な訪問者/奈良県天川村/帰ってくる人/固まる爺婆/お寺とタマシイ/
飛ぶ女/帰ってくる大蛇/呼ぶ人、来る人/狐憑き/真夜中の石臼/
狐火になった男

山の不思議に関する話を集める。昔風でもあり今風でもあるところ、「○○の見間違いだよ」と、「そんなことはありえない」という人たちの談話もそのまま載せているところもおもしろい。

たしかに、単純に狐狸妖怪のたぐいを信じる心性は薄くなったとしても、山の中でときに感じる威圧感や不思議な空気があるかぎり、この種の話はある種のリアリティを持ちうるだろう。

筆者は言う。「山に住んでいていも、不思議な体験はまったく無いし聞いたことも無いという人に何人も会った。世の中に不可思議など存在しない。すべては説明がつくことしかないと断言する人もいた。しかし、その人たちと話をしていると、疑問に感じることはいくらも出てくる。例えば狐火など謎の光は〝何かが反射した〟〝それは蛍だったのだろう〟〝ヤマドリが光ったから〟〝実は俺〟と各々に答えを出している。とはいえ条件が季節的にまったく合わなかったり、物理的に無理だったり、いくら何でもその説のほうが変だ!と言わざるを得ない場合が多々あった。これはその人たちは実は起こったことに一番納得していないのだと思う」(280)。

もちろんこのように、どちらかといえば怪異肯定側なんだろうけども、怪異否定論者の語りを頭ごなしに否定をするわけでもない筆者の書き方は好きだな。「怪異はない」「怪異はある」と、どちらとも言い切れないところに、そのようなあり方において、怪異はある。

[J0254/220326]

吉田文久『ノー・ルール!』

副題「英国における民俗フットボールの歴史と文化」、春風社、2022年。

序章
第1節 問題の所在と目的  
第2節 フットボール研究の前提
第3節 これまでの民俗フットボール研究
第4節 本書の構成

第1章 民俗フットボールの消滅と存続
第1節 消滅した民俗フットボール
第2節 英国に存続する民俗フットボールの実態
第3節 消滅、存続する民俗フットボールの多様性の意味

第2章 存続する民俗フットボールの変容
第1節 存続する民俗フットボールの変容内容
第2節 存続する民俗フットボールをめぐる状況の変化
第3節 存続する民俗フットボールの歩んだ変容の方向性

第3章 カークウォールのバー・ゲームの民族誌
第1節 カークウォールの概要
第2節 カークウォールのバーの起源と歴史
第3節 カークウォールのバーのゲーム概要
第4節 カークウォールのバーにみる伝統の継承と発展
第5節 カークウォールのバーの意味変容―伝統行事からコミュニティ統合の活動へ
第6節 カークウォールのバーの存続

第4章 民俗フットボールの存続・継承の現代的意義
第1節 民俗フットボールの存続・継承の文化・社会的解釈
第2節 現代スポーツへの発展的提起
第3節 民俗フットボールの存続・継承の教育的意義

終章
第1節 研究の成果
第2節 研究の今後の展望

イギリスの地域に点々と残るお祭りとしてのモブ・フットボールの調査研究。もっとも、モブ・フットボールとはそれを抑圧する側の呼称だったとして、本書ではこれを「民俗フットボール(folk football)」と呼んでいる。

現在、17ヵ所で民俗フットボールが生き残っているそうだが、筆者は20年以上をかけてそのすべてを見学したというから凄い。一番力を入れて調査をしているのは、第3章で扱っているカークウォールの「バー・ゲーム」だが、カークウォールといえば、イングランドに対しては田舎であるスコットランドの、それも最北端の離島。日本でいえば利尻島みたいな。

おもしろいのは、今日では民俗フットボールの方が、近代的なタイプのスポーツよりも、良い意味での「自己規律」が機能しており、暴力のエスカレートが防がれているとの見方。「近代スポーツではルールが厳格され、ゲームの制御が審判に任される分、プレーヤーの自己規律は重視されず、相手を打ち破ろうとする競技性、あるいは争覇性の強い世界が展開されているのである」(148)。対して、「同じコミュニティの住民が競い合う今日の民俗フットボールでは、暴力は内在的な自己規律によって制御され、ゲームを通してコミュニティの結束が重視される。そこでは、ゲームは、地域社会の統合や住民のアイデンティティの涵養に結びつく共同体的な行事を志向しているのである。それに対して近代スポーツにおけるゲームには、ある意味で異なるコミュニティ間で争われた近代以前の民俗フットボールと似通った状況がある」(148)。つまり、今日の民俗フットボールには、相手に対する配慮や暗黙の了解が働いているということで、暴力性のレベルはちがっても、あるいは近代以前もそうだったかもと想像したくなる(死者は出たのだろうけど)。もっともここは、別の用法もある「自己規律」という言葉じゃない方が良いと思うけど。

次の指摘も。「民俗フットボールの最盛期は、定説ではそれらの多くが消滅したといわれる産業革命後の19世紀末であった…」(304, cf. also 152)。その根拠は、中房敏朗による歴史研究で、背景や理由等は論じられていない。

民俗フットボールの多くは、告解火曜日に開催されてきた。それはもともと、非キリスト教的なこの行事を、できるだけキリスト教化しようという目論見かららしい。カークウォールの場合は、クリスマスと元日に開催するとのことで、今度はそれが、通常のやり方でクリスマスを祝いたい人たちの不興を買ってしまって、存続の妨げのひとつになっているのだとか。

それにしても今は、YouTube であれこれ関連映像を眺めながら、この種の本を読めるのが楽しい。

[J0253/220325]