Month: May 2020

ジェームズ・スコット『実践 日々のアナキズム』(2)

スコット自身の思想も傾聴に値するが、人類学者として東南アジアのフィールドからものを考えてきた人だけに、現代世界の支配的構造に関して示唆に富む指摘も多い。

「ある種の名付け、風景、建築、作業手順の計画がもつ秩序、合理性、抽象性、見取り図的な認識のしやすさは、階層秩序の権力に寄与する。私は、それらを「管理と割当の風景」と考えている。簡単な例をあげると、永続的に父の名を引き継いでいくという名付けは、ほとんど普遍的な方法だが、国家がそれを住民の識別に便利だと見出すまでは世界中のどこにも存在しなかった。この名づけ方は、徴税、裁判所、土地所有制、徴兵制、犯罪捜査の普及、すなわち〔中央集権的な〕国家の発達とともに広まっていった」(42)。スコットは、地元の人にしか通じない、土着の地名の例なども挙げている。地名はともかく、姓名と国家との結びつきの話は考えたことがなかったな。日本では、すぐに「イエの一般的形成」(尾藤正英)のことが想起される。近世、すなわち英語で言うところの early modern (初期近代)段階におけるイエの一般的形成は、各家計の独立であるとともに、(この時期はまだ近世的な形態であったとしても)国家的統治の浸透でもあるわけだ。もちろん、例外なく国民が姓名を持つようになったのが明治だということも、スコットの指摘に沿う。同じ姓が多いということもあるけど、田舎ではいまでも姓ではなく名前で呼びあうという風景も頭に浮かぶ。

遵法ストライキ、遵法闘争(work-to-role)の話、おもしろし。「たとえば、パリのタクシーの運転手は、市当局から課される各種手数料や規制に対して不満を抱くと、熱心に規則を守る遵法ストライキと呼ばれる手段に訴えてきた。彼らは皆で合意し、タイミングを見計らって、突如として道路交通法規に書かれているすべての規制に従い始める。そして、思惑どおりにパリの交通を機能停止に陥らせる」(56)。「どんな職場、建設現場、工場の作業場でも、実際の作業工程は、それを管理する規則からでは、いかに綿密なものでも適切に説明できない。実際の作業は、そうした規則の外部にある非公式の知恵と即興的な対応が効率的だからこそ、やり遂げられている」(57)。これは、社会主義の計画経済が必ず失敗する理由でもある。スコットは、アカデミックな世界において Citation Index による評価を重視することがいかに弊害を生むかを、彼自身のスタイルを破って執拗に述べているが(第五章)、いましがた引用した部分の洞察に基づいてのことだろう。実際の人々の働き方や、職場職場におけるローカル文化のあり方を考えるときに、本当にリアルで重要な洞察だと思う。同様にスコットは、標準化され単純化された製造ラインのことを、「労働力の「愚鈍化」」と特徴づけている(82)。人は職業生活の中でも独立していなければならないし、またその力に信頼を寄せるべきだということだろう。

信頼の問題とも絡む話として、「善の陳腐さ」。この言葉は、フランソワ・ロシャが、アーレントの「悪の陳腐さ」と対比させて使ったものだという(160, Francois Rochat and Andre Modigliani, 1995)。つまり、人を個別に認識したときには、人は彼らに同情を寄せ、助けようとするものであって、抽象的な思想的な主義はせいぜい後付け的なものだという洞察である。だから、個別性を取り戻さなくてはならないというわけである。

スコットの仕事は、国家や資本主義といった支配的システムに抗すべきことを教えるとともに、そのヒントが遠くなにか高遠な領域にあるのではなくて、もっと身近な日常的な実践に潜んでいることを、だからそれを言語化することが大事なのだと教えてくれる。

ジェームズ・スコット『実践 日々のアナキズム』(1)

[J0049-2/200530]

ジェームズ・スコット『実践 日々のアナキズム』(1)

清水展、日下渉、中溝和弥訳、岩波書店、2017年、原著は2012年。著者は東南アジアをフィールドとした人類学者・政治学者でもある。本書は、著者のアナキズム哲学――といっても体系的思想を嫌った、実践の哲学であるが――を示す。日本社会では、秩序への恭順は江戸時代以来の文化であって、なんだかある面それはますます支配的となっているような気もし、スコットの示している思想はそんな日本にもっとも欠けているものだ。スコットが「アナキスト柔軟体操」として意図的に交通ルールを守らないくだりなど――それが一種の実験だとしても――、日本ではほとんど現実的な支持を得られないだろうという気がする。

第一章 無秩序と「カリスマ」の利用
第二章 土着の秩序と公式の秩序
第三章 人間の生産
第四章 プチ・ブルジョアジーへの万歳二唱
第五章 政治のために
第六章 個別性と流動性

歴史の事実からイデオロギーによる「革命への幻滅」を覚えたあと、著者が国家やそれとおたがいに結託した資本主義システムの支配に抗すべき拠り所として信頼を寄せるのは土着の行動原理である。

「歴史的にみて、私たちは相互に協力して、国家なしで秩序を作り上げてきた。だが、相互性と協力の能力および実際の活動は、国家をはじめとする公式の階層的秩序のヘゲモニーによって、どれほど掘り崩されてきたのだろうか。ホッブズは、リヴァイアサンによって非社会的な利己主義者を飼いならそうとした。だが、国家の拡張と浸透、そして資本主義の経済活動を支える論理は、逆説的にも、そうした非社会的な利己主義者をどれほど実際に生み出してきただろうか」(xxi)。

「違法行為と秩序崩壊が民主的変化に寄与するという逆説」(20)。「20世紀のアメリカを取り上げてみれば、1930年代の世界恐慌と1960年代の公民権運動という、二つの重要な政策改革が適切な例である。これら二つについて最も印象的なのは、大規模な混乱と公的秩序に対する脅威が改革の過程で決定的な役割を果たしたことだ」(20)。「大規模な挑発が、いつも、あるいは一般的に、重要な構造的改革をもたらすと主張することは誤りであろうし、事実、危険でもあろう。逆に、それらは抑圧の強化、市民権の制限、極端な場合には代議制民主主義の崩壊さえももたらしかねないだろう。それにもかかわらず、大きな混乱と、それを封じ込めて元に戻そうとするエリートの慌ただしい対応なくしては、多くの重要な改革が着手されなかったことも否定できない。非暴力主義に基づいた法と民主的権利の訴えによって道徳的優位性を追求するような、より「礼節にかなった」様式の集会やデモを真っ当なものとして好む者もいるだろう。だが、そうした好みにかかわらず、礼節にかなった平和的な要求が、構造的な改革を開始させることはほとんどなかった。労働組合、政党、そして急進的な社会運動さえも、それらの働きは、野放図な抗議や怒りをまさに制度化することにある」(23)

コロナ騒動の下、思い当たることはいくつもある。そのひとつとしてぱっと思い浮かんだのは、乙武さんの言葉。障害のある人たちが長年要求していたリモートワークやオンライン教育が、この機会に突然一般化したことについて。「あれだけ熱望したのに、あれだけ声を上げていたのに、ちっとも耳を傾けてもらえなかった。ところが、いざ「自分たち」が同じような困難に直面したら、これだけスピーディーに、これだけダイナミックに世の中は変わっていくんだなって。やっぱり、ちょっと、悔しいんですよ。 」
https://note.com/h_ototake/n/n421eb8211e0a
コロナは意図的な違法行為ではないが、秩序に対して破壊的に働く現象ではある。

本文に戻って、先に触れた「アナキズム柔軟体操」について。「私は本章を、ノイブランデンブルクにおける信号無視というきわめてありきたりな例から書きはじめた。その目的は、自己利益のために、ましてや数分を節約するという小さな理由のために、違法行為を促すことではなかった。むしろ私の目的は、自動的な服従という根深く染み込んだ習慣が、よくよく考えてみれば、ほとんどすべての人にばかげたことだと分かる状況をいかにもたらしうるのかを例証することだった」(25-26)。「より公正な法的秩序を創出」しようとするときには、既存の制度的・法的な枠組みを踏み越えなくてはならないという。

訳者の清水展によるまとめ、「スコットにとってアナキズムとは、上からの管理と支配、近代化プロジェクトの強要に対抗したり、これを上手く回避したりする、市井の人々の日常的な行動や不服従、面従腹背、そして相互性と協調・協力などのさりげない実践の総称なのです。自由と自主・自律を求めるアナキズムは、表面的にはリバタリアニズムと似通っており、新自由主義経済とも親和性がありそうに見えます。しかし、その両者に強く反対していることに留意が必要です。レッセ・フェールの自由放任では富者・強者の力に歯止めがかからず、貧富の格差と不平等をいっそう拡大してしまうからです。相対的な平等と公平さを担保するためには、「私たちはリヴァイアサンから逃れることができない。課題はそれを飼いならすことだ」というのが、スコットの問題意識であり、本書の課題です」(訳者あとがき・解題、185)。実際に「リヴァイアサンから逃れることはできない」というときのスコットのつぶやきは、悲観的な響きを持っている。

こうして少し気になるのは、スコットにおける国家と資本主義システムの関係である。訳者の指摘のとおり、スコットがリバタリアンではないことは分かる。一方、スコットは伝統的共同体の妥協的な支持者のようにもみえる。「妥協的」というのは、国家や資本主義の秩序を全面的に否定しうるとは考えていない点においてである。つまり、スコットは積極的な行動原理としてアナキズムを指示しているというより、国家「および」資本主義の下で生きているという現実の下、それらの原理に完全には飲み込まれないよう、その中でベターな行動原理としてアナキズムを提唱しているようにもみえる。彼が理想のモデルとしているのは、独立した小規模・中規模の自作農や自営の小さな商店主であるが(「小規模自作農と商店主が幅をきかせている社会は、今までに考案された他のいかなる経済システムよりも、平等性と生産手段の大衆所有制にいちばん近づいているのだ」120-121)、この世界で誰もが自作農や自営商店主として(のように)生きられる道を考えているようにも思えない。体系的思想の拒否は、国家体系や資本主義の体系に打ち克つことができるだろうか、どうだろうか。スコットが自作農について指摘しているとおり、それぞれの生業のあり方こそ、人々が国家や資本主義の原理に対抗する上で、決定的に重要である。

ジェームズ・スコット『実践 日々のアナキズム』(2)

[J0049-1/200529]

三井徹『マイケル・ジャクソン現象』

新潮文庫、1985年。平野甲賀デザインのタイトルがまた、1980年代の気分。ひとつ容易に想像されるのは、この本を手に取った当時のMJファンの困惑である。たしかに写真は豊富。しかし、そこにはリンチで焼かれ焦げた黒人の死体を満足げに眺めている白人たちの写真までが含まれているのだ。文庫本の体裁とうらはらに、民族音楽・黒人音楽研究家の著者による硬派な内容で、MJのファンブックを期待して読んだ人はびっくりするだろう。

第一章 マイケル異常人気の秘密
第二章 可愛い「黒んぼ」
第三章 「品行方正」な黒人
第四章 「ジップ・クーン」のイメージ
第五章 黒人芸人の系譜
第六章 ダンスの流行
第七章 黒人音楽の変遷
第八章 音楽産業とマス・メディア

「これは大変なポップ爆発現象だ。新聞雑誌は、ビートルズ以来である、個人としてはエルヴィス・プレスリー以来であるという。そして、数字の上では、そのプレスリーをも、ビートルズをも凌いでしまうものだ。しかし、それは単に量的な比較であって、同じ爆発と言っても、マイケル・ジャクソンの人気の爆発は、黒人であることを別にすれば、ただとにかく売れている現象なのだという感が強い。多かれ少なかれ衝撃的なこととしてプレスリー経験をしてきた者、あるいはビートルズ経験をしてきた者ならば、すぐに違和感を覚えることで、エルヴィスやビートルズの人気にはっきり付帯していた反逆的な、革新的な含みが、マイケルの場合にはまったくないのだ」(176)。

著者は、その爆発的な人気の背景を確かめるのに、大手レコード会社の経営手腕をすら論じている。本書の中心的主張は、マイケル・ジャクソンは「すんなりと万人受けする」無害さ、つまりは白人層に対する無害さによって売れているのであり、そしてそうした芸風はアメリカ黒人差別の歴史の中に根を持つ、歴史的・社会的必然性を有するものだというところにある。たとえば、田夫としてのジム・クロウと並んで、戯画化され再生産されてきた黒人像であるジップ・クーンの系譜である。著者は決してMJを非難してはない。そうではなく、MJが売れることの背後になお潜む、アメリカの人種差別構造を浮き彫りにしようとしている。

日本からみてまたおもしろいのは、そういう文脈をまったく無視した、日本におけるMJあるいは黒人音楽の受容である。1980年代、子供心に、マイケルは、カール・ルイスやあれこれの話題映画ともに、アメリカそのものだった。ポップ・アイコンという言い方がこれほど似合う人はほかにいない。

なお、僕が一番好きなポップ・アイコンとしてのマイケルは、もう少しあとのFlashブームのときに作られた、ファミコンソフト「マイケル・ジャクソン・ムーンウォーカー」をモチーフにした「マイケル・ファンタジー」というひどく懐古的な動画である。マイケルと任天堂、並べてみるとぐっと来る。エモいなんて言葉は使わなかった頃。

[J0048/200528]