副題「最期の人生行事」、八坂書房。2017年。宮本常一の膨大な著述のなかから、葬儀と墓関係のものを集めた一冊。注釈のほか、索引も付して、編者・田村善次郎さんのていねいな仕事。
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『河内国滝畑左近熊太翁旧事談』より、大阪府滝畑における柿の木の話。「昔は〔死体を〕焼いた。焼く柴は柿の木にきまっていた。だから柿の柴は平生は焚かなかった。縁付き〔嫁入り〕する時、女は柿の木を持って行った。それで村には柿の木が多い。村に入って心にともったのは、深い緑にかくれていた家がまたあらわになってきていることであった。家の丘の櫟林も黄に色づいて半年は散っている。家の裏の柿の木も大方は葉がおちて赤い実が残っているのもあり、もうとってしまったのもある。これら柿は多くは、娘が嫁に行く時、里から持って行ったのだという。やがてその死んだ日、里から持って行った柿の木で焼いてもらうのです。柿の木の成長は、また自らの死の近づくことを意味していた。そうして村人には深い印象をあたえた木であった。それが土葬になってから、柿を持って来た祖母は死んでも木は伐られなくなった。そうして木はだんだんと大きくなって行くのであろう。孫のためにはこれが秋をたのしませるものとなったのである。しかし柿の木を不浄とする心だけは未だこの村にも残っている。ここだけでなく和泉取石などではさらに人をやく木がせんだんになっている。かくて柿、せんだんのような落葉樹の広く忌まれる故はもと火葬の用にしたためではないかと思う。そうしてもとの行事の完全に忘れられる時、いわゆる迷信として人々から抹殺されて行くのであろう。庭の柿の木に火の玉のとまったという話は和泉だけでなく中国四国にもおこなわれているようであるが、これはたまたま屋敷中にある大樹が多くは柿であったという関係だけでなく、あるいは前述の如く、柿が人を焼く木であったというようなところにも多少因由しているものではあるまいか」(147-148)。
『私の日本地図9 周防大島』から、宮本の母親の葬儀の話。「六十をすぎたら、私もふるさとへ帰って百姓をしながら晩年をすごそうと思っていたのだが、その頃から学校へ勤めることになってしまって、まだふるさとへ帰住する目途が立たない。しかし、都会で働きつづけて、一応その仕事を終えた者は、出身の地に家と土地を持っている限りはそこに帰るべきものだと思っている。そして、そこで人生をふりかえって見る生活をすることも、意義のあることではないかと思う」(179)。
『私の日本地図13 萩付近』から、山口県見島の、島外の人の墓。「この島には島に流されて来て死んだ人の墓がいくつもある。たいてい流人であった。・・・・・・宇津には日露戦争の日本海海戦のとき、この島に漂着して死んだ兵士たちの墓がある。島外から来て死んだ人たちを丁重に葬ることによって、島はそういう人たちの霊によって守られるものであると信じられていた」(204)。
『私の日本地図10 武蔵野・青梅』から。「早く死んだ子供たちは親の生きている間は親がまつってくれるであろうが、死んでしまった後は誰もまつってくれることのない無縁仏になる。そこで人の多く通るところや人の目につくようなところに墓をたて、その人たちの手向けをうけて成仏させるようにした。道ばたの地蔵さまや、墓地の入り口になどにならんでいる地蔵様にはそうした親の心が秘められていた」(240)。
『愛情は子供と共に』から。「もともと私は地蔵信仰について深く心をとめたこともなかったのであるが、子を失ってみて、辻々にたつ童形を思い出し、その中に秘められた親心を考えてみようとするようになった。津軽の川倉や深沢、または恐山のように一定の日に親たちの集うて祭をするほかに、京阪の地のごとく行きずりの人の祈願によって子の霊の幸を祈る風も見られた。死んだ童子は本来祖先となるものでない。親たちが死んで行けば祀ってくれるものもない。そのために行きずりの人たちの祈願をいつまでもうけるべく童形をきざんだ石碑に戒名を彫り、また左何右何と名高い寺社の名などを書いて別れ道にたて道標にしたものが多い。古い大阪や京の町を知る人の話によると、そうした道標が実に多かったということである。村内安全を祈るための地蔵堂なども村に必ず一ヵ所は見かけるが、もとは不幸な死をとげた子のためにたてたものが少なくないようである」(242-243)。
『村の旧家と村落組織』1より、兵庫県鴨庄村の三界万霊塔。「無縁仏をまつる三界万霊塔は、この地にも見かけられる。しかし、他地方の如く寺の入口にあるものはなくて、神池寺は境内にこれを見、元禄三年(一六九〇)のもので、在銘の万霊塔としては一番古いものである」(269-270)。
「身辺の中にある歴史」中、「真宗と民俗」という文章も含蓄に富む。石塚尊俊も論じていた、中国と北陸の真宗のちがいにも触れている。著作集13『民衆の文化』に所収とのこと。
[J0577/250419]
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