副題「教育と現代社会の病理」、ちくま新書、2018年。メリトクラシー論とギデンズの再帰的近代論をくみあわせて、いまの教育システムの機制を論じる。そこそこの抽象度で、具体的な教育の話を求めている人にはあわなさそうだが、論旨明瞭、すくなくとも僕には有益な見方を与えてくれる。
第1章 現代は「新しい能力」が求められる時代か?
第2章 能力を測る―未完のプロジェクト
第3章 能力は社会が定義する―能力の社会学・再考
第4章 能力は問われ続ける―メリトクラシーの再帰性
第5章 能力をめぐる社会の変容
第6章 結論:現代の能力論と向き合うために
「メリトクラシーという近代的なシステムは、前近代的な世襲ないし血縁にもとづく伝統的な地位継承のシステムに代替するものとして登場したが、前近代的な選抜システムほど明確な基準は持てないものであった。なぜなら、社会全体で共通するような能力というものは、抽象的なものでしかありえず、また抽象的能力であればそれは容易には測定しがたいものでしかなかったからである。そして、具体的に世の中を回していくために、学歴や学校の成績、資格といったものを暫定的に「能力」の指標とみなして、それらの保有者を厚く待遇するシステムを構築してきたのが、近代社会の姿だったのである。その意味で、近代社会は、厳格な意味での能力主義社会ではなくむしろ暫定能力主義社会なのである」(162)。
そうしたメリトクラシー社会における「能力アイデンティティ」。この語は、岩田龍子『学歴主義の発展構造』(1981年)で使われていたものを、著者の中村さんが取り上げなおすもの。
「この能力アイデンティティは、さまざまな情報や指標によって確立が試みられるのだが、再三論じているように、決定打となる情報は手に入らないため、つねに揺さぶりをかけられることになる。人々は、仕事や勉強に限らず、さまざまな場面で思い通りに事が運ばない場面に遭遇すると、しばしば「自分には能力がないんじゃないか」という問いを自らに発するようになる。これは人により、状況によって程度や質の差はあるが、おしなべて近代社会に生きる人々に共通する不安である。このような不安を〈能力不安〉と呼ぶことができる」(167)。
就活における「学歴フィルター」言説の話から、「再帰的な学歴社会」という話。
「しかし、ここで重要なのは、露骨な学歴による選別を「学歴差別」として再帰的問い直しのふるいにかけることが前提となる社会になったという点である。後期近代において、私たちは教育選抜だけではなく、採用や昇進の選抜においても、「学歴だけではダメ」というロジックを前面に出したシステムを作らざるを得なくなっている。本音では学歴信者であったとしても、である。だから、これからの学歴社会はつねに学歴主義批判を織り込んだ、まさに自己言及的で再帰的な学歴社会しか当分の間はつくれないだろう。それはある意味でたいへんにまどろっこしく、婉曲な学歴社会なのだ。だから、常に釈然としない感覚が残り、その学歴社会自体がまた再帰的に問い直されつづけることになる。これが、後期近代におけるメリトクラシーの、いささか不安定な存立機構なのである」(201)。
著者の主張全体からすれば、メリトクラシーとしての学歴社会は、たまたま最近になって再帰的で不安定になったのではなく、本来もともとそういうものであって、その性格が近代性の進行ないし後期近代段階への突入によってより露わになってきたということだろう。211ページに一覧表がある。
メモ:岩田龍子『学歴主義の発展構造 改訂増補版』(1988年)、NDLリンク。
[J0587/250702]
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