ハヤカワ新書、2024年。都市伝説や、こうした「ネット怪談」などをあれこれ取りあげた話を「民俗学」とよぶようになってひさしいが、それはだめでしょう、やっぱり。「民俗学の濫用」に対するダメ出し自体が古いと言われるだろうけども、依然だめなのだからしょうがない。これがもし、メディア研究や文芸研究、社会学といった範疇のなかで、しかるべき方法論ともに書かれているなら問題はないのだが。いじわるな見方をすれば、それができないから「民俗学」の看板を立てている気もする(これは本書著者に対する批判というより、安易に「民俗学」を称する方々一般に対する批判)。
日本民俗学の重要な基盤のひとつは、民俗調査であり、地方文化へのまなざしなわけで、いくら現代社会の趨勢やインターネット空間がそうした契機自体を失わせるといっても、そうした基盤の上に蓄積されてきた先行研究やその方法論に対する正当な位置づけがなければ、「民俗学」という看板の剽窃であり冒瀆になる。消えゆくものに対するこだわりが民俗学にはあったわけで、地域が担う共同体や文化という形態が衰退したから、さあ次の対象に行こうというやり方ではまずいはずである。
一番気になるのは、それが難しいことはよく分かるが、ネット上の情報ばかりいじくっていて、ネットやネット怪談にかかわっている「人」に対して調査におもむこうとしていない点だ。せいぜいがアクセス数の集計。ネットだって具体的な人が使っているわけで、そこになんとかアプローチしようとしないと、民俗学にはなってこない。だから、メディア研究というならよく分かるし、そうであれば文句もないのだ。
こうした事態を生んでいる理由のひとつとしていま想起されるのは、民俗学ということばが、フォークロア(folklore, Volkskunde)という範疇と対応していると捉えられてきたことだ。たとえば、都市伝説やネット怪談をフォークロアと捉えることには違和感がない。だからといって、そのフォークロアを民俗学と訳されてしまうと、ちょっと待てよ、となる。本書のような種類の「民俗学」が、たいていアメリカの都市伝説研究を経由して自己弁護するのはそのせいだろう。日本民俗学が達成してきたことは、実は、folkloreというカテゴリーにはまったく収まらないのである。あとは、柳田に言及しさえすれば民俗学になるみたいなやり方もよくない。
第1章 ネット怪談と民俗学
第2章 共同構築の過程を追う
第3章 異世界に行く方法
第4章 ネット怪談の生態系―掲示板文化の変遷と再媒介化
第5章 目で見る恐怖―画像怪談と動画配信
第6章 アナログとAI―二〇二〇年代のネット怪談
[J0586/250701]