副題「ニッポンの大学教育から習性を読みとく」、ちくま新書、2025年。

はじめに──大学教師としての私
第1章 大学の「大衆化」とは何かを問い直してみる
第2章 日本の大学は翻訳語でできている
第3章 翻訳学問から思考の習性を読みとく
第4章 言葉と知識のかけ違え──「大衆」と「階級」
第5章 こぼれおちる概念──「階級」と「(社会)階層」
第6章 現実にそぐわない言葉の使われ方
第7章 キャッチアップ型思考とグローバル化

日本の大学の翻訳学問・翻訳文化が、よくない意味での演繹型思考をもたらしていると。
「翻訳学問の弊が異文化の受容形式に埋め込まれた「濾過の過程を見落としている」点にあるとすれば、その見通しがもたらすもう一つの弊は、「もののじかの観察を通さないコトバのうえの知識」の受容と伝達を当然のこととみなしてしまうことでしょう。いや、そこにありがたみさえ与えてしまうのです」(87)。

本書ではこの後、階層や階級の概念について、語の翻訳にともなう「濾過の過程」(柳父章の議論に由来)を確かめている。「一度翻訳書が出ると、その後日本の読者の多くは原著を読まなくなります。今回私がやったように、しつこく、原著で使われる言葉と翻訳書の言葉の比較参照をすることは専門家の間でもあまりなされません」(137)。

「概念をよく考える」ということではあるが、ひとつのポイントは、翻訳語をそのままありがたがる姿勢で「概念をよく考える」のでは意味がないのであって、原語がもつニュアンスや多義性を確かめて、それと翻訳された語との距離を測らねばならないということ。

僕自身が言いたいことに言いかえてしまうと、「すくなくとも日本では、どんな “実証研究” も、それが翻訳語を用いているかぎり、その原語の意味を確かめる学説史研究を前提としていなければならない」。

それにしても、「日本人の思考」というタイトルは括りが大きすぎるでしょう。編集者が提案したタイトルなんだろうとおもうけど、そんなに売りたいなら、このタイトルにふさわしいもっと一般向けの本だって書けるでしょう、苅谷さんなら。

[J0600/250807]