副題「独立革命から憲法制定、民主主義の拡大まで」、中公新書、2024年。
序章 国家が始まるということ―ローマ、アメリカ、日本
第1章 植民地時代―1607~1763年
第2章 独立―1763~1787年
第3章 連邦憲法制定会議―1787年
第4章 合衆国の始まり―1787~1789年
第5章 党派の始まり―1789~1800年
第6章 帝国化と民主化の拡大―1800~1848年
終章 南北戦争へ
1776年、アメリカ独立宣言。「その後、1783年までイギリスとの戦争が続くが、フランスなどヨーロッパ諸国の支援もあってアメリカ側が勝利する。1787年に13の植民地をたばねる連邦憲法が制定され、今日のアメリカ合衆国の基礎ができあがり、その後1840年すぎまで国家運営を安定させようとしていく。アメリカ革命とは、約70年にわたる長期プロジェクトなのだ」(ii)。上の章立てをみると、1776年は区切りとはされていない。
強調点として「成文憲法の始まりこそ、アメリカ革命の最大の功績である」(iv)。それは13州が侃々諤々の議論の末にようやくできあがった「智慧の結晶」であったという。
「民主政という私たちにとって馴染み深いこの概念が、合衆国建国当時、肯定的に捉えられていたわけではないことは、もっと強調されてもよい。もちろん、人々の自治といったような考え方がなかったわけではないが、それは「民主政」という言葉で理解されていたわけでは必ずしもなかった。民主政はあくまで政治体制の一つであり、多くの人々の政治参加はアナーキーに至るものとされ、否定的に捉えられた」(173)。
「イギリスからのアメリカ独立という出来事だけを強調して捉えるのではなく、より長期的な視野で18世紀後半から19世紀前半を眺めると、実は独立後のアメリカがやっていたことは〔*革命的な民主化というより〕イギリスの帝国政策の再来にすぎず、両者が一貫した潮流だとする理解も有力なのだ」(191-192)。
ハイチ革命と「ルイジアナ購入」との関係。
「1802年3月から03年の5月までフランスはイギリスとつかの間の和平状態にあったため兵力を割く余裕もあり、ルクレールは卓越した指導者トゥサン・ルーヴェルチュールの捕縛に成功した。しかしルクレール自身も感染症で病死し、植民地〔サンドマング、ハイチ〕の独立が避けられなくなった。このためナポレオンにとっても北アメリカに拠点を持つ意味が減退した。そこに目をつけたのがジェファソンである。アメリカがイギリスに接近しているかのようなブラフをみせながら、ナポレオンに対してニューオーリンズ売却を持ちかけた。それならばとナポレオンも、ニューオーリンズのみならず、北アメリカ大陸のフランス領ルイジアナを想定外の高額ですべて売却すると吹っ掛けた。フランス大使ロバート・リヴィングストンと特使のモンローはこの条件を呑んだ。1803年4月のこの出来事で、フランスは北アメリカ大陸への影響力をほぼ喪失し、逆にアメリカ合衆国の領土はまたしても一挙に二倍に増えた。・・・・・・しかしこの領土拡大は火種をなお残した。もともとスペインの土地だったため、どこまでアメリカがフランスから買ったのか実はよくわからなかったのである」(199-200)。

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[J0598/250805]
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