Month: August 2025

苅谷剛彦『日本人の思考』

副題「ニッポンの大学教育から習性を読みとく」、ちくま新書、2025年。

はじめに──大学教師としての私
第1章 大学の「大衆化」とは何かを問い直してみる
第2章 日本の大学は翻訳語でできている
第3章 翻訳学問から思考の習性を読みとく
第4章 言葉と知識のかけ違え──「大衆」と「階級」
第5章 こぼれおちる概念──「階級」と「(社会)階層」
第6章 現実にそぐわない言葉の使われ方
第7章 キャッチアップ型思考とグローバル化

日本の大学の翻訳学問・翻訳文化が、よくない意味での演繹型思考をもたらしていると。
「翻訳学問の弊が異文化の受容形式に埋め込まれた「濾過の過程を見落としている」点にあるとすれば、その見通しがもたらすもう一つの弊は、「もののじかの観察を通さないコトバのうえの知識」の受容と伝達を当然のこととみなしてしまうことでしょう。いや、そこにありがたみさえ与えてしまうのです」(87)。

本書ではこの後、階層や階級の概念について、語の翻訳にともなう「濾過の過程」(柳父章の議論に由来)を確かめている。「一度翻訳書が出ると、その後日本の読者の多くは原著を読まなくなります。今回私がやったように、しつこく、原著で使われる言葉と翻訳書の言葉の比較参照をすることは専門家の間でもあまりなされません」(137)。

「概念をよく考える」ということではあるが、ひとつのポイントは、翻訳語をそのままありがたがる姿勢で「概念をよく考える」のでは意味がないのであって、原語がもつニュアンスや多義性を確かめて、それと翻訳された語との距離を測らねばならないということ。

僕自身が言いたいことに言いかえてしまうと、「すくなくとも日本では、どんな “実証研究” も、それが翻訳語を用いているかぎり、その原語の意味を確かめる学説史研究を前提としていなければならない」。

それにしても、「日本人の思考」というタイトルは括りが大きすぎるでしょう。編集者が提案したタイトルなんだろうとおもうけど、そんなに売りたいなら、このタイトルにふさわしいもっと一般向けの本だって書けるでしょう、苅谷さんなら。

[J0600/250807]

丹野智文『認知症の私から見える社会』

講談社+α新書、2021年。認知症の人に対する先入観が、病気以上に認知症の人を苦しめるという話。

第1章 認知症の人たちの言葉から
第2章 認知症の人の目の前にある「現実」
第3章 「やさしさ」という勘違い
第4章 「あきらめ」という問題
第5章 工夫することは生きること
第6章 認知症と共に生きる

「診断されたからといって次の日から急に「物忘れ」が増えるわけではありません。周りの人たちの意識が大きく変わってしまうのです」(3)。

「認知症の症状でできないこともあるかもしれませんが、それは生活の中の一部であり、何もできないと言われ、すべてができなくなったと言われるのはおかしいと思います。また、「最近怒るようにもなった」と言われることがありますが、そもそもすぐ隣でそんなこと〔「何もできなくなった」〕を言われたらイライラすると思います。怒るようになったわけではなく、周りの人たちが気づかないうちに怒らせているのです」(49)。

患者に対しては「認知症らしさ」を求める社会。

「認知症の進行を遅らせたいと思うことは当たり前のことです。でも「やさしさ」から当事者の想いから家族の思いの方が強くなってしまうのです。進行を遅らせるために認知症に良いといわれることを何でも試そうとしてしまうのです。脳トレ、ドリル、体操などあらゆることをさせられます。当事者が決めるのではなくやらされるのです。そして学校の宿題のようにやらないと怒られてしまうのです。また、認知症に良いといわれる食べ物やサプリメント、これも高い金額を出して購入して食べさせられたりします。・・・・・・これら「認知症に良いこと」はすべて医学的に証明されていることではありません」(71-72)。

「支援者も家族も「リスクがあるから」と言います。これから起きるかもしれない危険、危機の可能性を回避するために当事者の行動を制限します。たしかにケガをしたりすることで入院などすれば、当事者も家族も大変です。でも最大のリスクはストレスです。そもそも認知症の症状で当事者には不安からくる大きなストレスがかかります。・・・・・・それだけですむならよいのですが、外部からのストレスがさらに追加されます。それは、「行動の制限、監視などからくるストレス」です」(76)。

「家族からの相談で多いのが、同じものを何度も買ってきて困っているという話です。当事者は「欲しい」から買ってくる、生活に必要だと思うから買ってくるだけで困っていません。・・・・・・同じものを買ってくることで困っているのは家族なのです。・・・・・・100円ショップで毎回ノートを購入する当事者がいて、未使用のノートが50冊あって困っていると聞いたので、児童館や施設などに寄付したらどうですかと提案しました。・・・・・・忘れて同じものを購入するのを問題とするのではなく、寄付をしたり、プレゼントをしたりすれば、当事者も怒られないですし、もらったほうもうれしくなると思うのです」(122)。

ここで、患者ではなく、当事者という言い方をしているのもポイント。

「私は病気をオープンにすることに不安を持っている当事者に対し、病気をオープンにする時には「できること」「できないこと」「やりたいこと」の三つを伝えたほうが良いと言っています。いままでの経験で、伝え方を工夫するだけで多くの人たちが助けてくれることを知ったからです。ただ単に「認知症と診断されたのです」と病名を伝えても、「何ができて、何ができないか」が伝えられた人にもわからないので、やさしさから「そっとしておこう」となり、離れていってしまいます。やりたいことなどをきちんと伝えると、機会があれば誘ってもらえることもあり、うれしい経験につながります」(136)。

これは認知症にはかぎらない、とびきりの金言。非当事者の立場からすると、この種の病気の当事者には、この三つをたずねてみることが大事とも言えそうだ。

「東日本大震災の経験や、台風による災害を経験したことにより、「希望」という言葉を使うのは本当に良いことなのかと考えるようになりました。「希望」という言葉には二通りの意味があると思います。一つは、「物事の実現を望むこと(実現可能な希望)」。もう一つは、「将来に対する期待や明るい見通し(漠然とした希望)です。認知症の人に対して使う「希望」は「叶わないこと」に対して明るい見通しを考える後者の意味で使われていないでしょうか。・・・・・・当事者、家族、社会、それぞれの希望の考え方が違うと思うのです。家族の希望は治療法を見つけ認知症が治ることでしょう。社会では「認知症になりたくない」という人が大多数で、予防と治療に希望を持っていると思います。・・・・・・本当なら社会にとっての希望は「認知症になっても安心して暮らしていけること」でなくてはならないと思います」(148-149)。

「認知症当事者にとっては未来も大切ですが、いまを大切に生きることが何よりも重要です。これまでの生活を工夫しながら、自分らしく続けていくことで将来も良くなるのです」(151)。

認知症当事者のかたが周りとのすれちがいに日々苦しめられていることがよく分かるが、本書のなかでは、イライラをみせることなくその状況をていねいに説明する著者の姿勢が印象的。それには、そうした機微を描きだす表現力の上に、外向きの啓発活動に取り組んでおられることが、精神的なバランスを保つ上でもきっと役に立っているのだろう。

[J0599/250807]

上村剛『アメリカ革命』

副題「独立革命から憲法制定、民主主義の拡大まで」、中公新書、2024年。

序章 国家が始まるということ―ローマ、アメリカ、日本
第1章 植民地時代―1607~1763年
第2章 独立―1763~1787年
第3章 連邦憲法制定会議―1787年
第4章 合衆国の始まり―1787~1789年
第5章 党派の始まり―1789~1800年
第6章 帝国化と民主化の拡大―1800~1848年
終章 南北戦争へ

1776年、アメリカ独立宣言。「その後、1783年までイギリスとの戦争が続くが、フランスなどヨーロッパ諸国の支援もあってアメリカ側が勝利する。1787年に13の植民地をたばねる連邦憲法が制定され、今日のアメリカ合衆国の基礎ができあがり、その後1840年すぎまで国家運営を安定させようとしていく。アメリカ革命とは、約70年にわたる長期プロジェクトなのだ」(ii)。上の章立てをみると、1776年は区切りとはされていない。

強調点として「成文憲法の始まりこそ、アメリカ革命の最大の功績である」(iv)。それは13州が侃々諤々の議論の末にようやくできあがった「智慧の結晶」であったという。

「民主政という私たちにとって馴染み深いこの概念が、合衆国建国当時、肯定的に捉えられていたわけではないことは、もっと強調されてもよい。もちろん、人々の自治といったような考え方がなかったわけではないが、それは「民主政」という言葉で理解されていたわけでは必ずしもなかった。民主政はあくまで政治体制の一つであり、多くの人々の政治参加はアナーキーに至るものとされ、否定的に捉えられた」(173)。

「イギリスからのアメリカ独立という出来事だけを強調して捉えるのではなく、より長期的な視野で18世紀後半から19世紀前半を眺めると、実は独立後のアメリカがやっていたことは〔*革命的な民主化というより〕イギリスの帝国政策の再来にすぎず、両者が一貫した潮流だとする理解も有力なのだ」(191-192)。

ハイチ革命と「ルイジアナ購入」との関係。
「1802年3月から03年の5月までフランスはイギリスとつかの間の和平状態にあったため兵力を割く余裕もあり、ルクレールは卓越した指導者トゥサン・ルーヴェルチュールの捕縛に成功した。しかしルクレール自身も感染症で病死し、植民地〔サンドマング、ハイチ〕の独立が避けられなくなった。このためナポレオンにとっても北アメリカに拠点を持つ意味が減退した。そこに目をつけたのがジェファソンである。アメリカがイギリスに接近しているかのようなブラフをみせながら、ナポレオンに対してニューオーリンズ売却を持ちかけた。それならばとナポレオンも、ニューオーリンズのみならず、北アメリカ大陸のフランス領ルイジアナを想定外の高額ですべて売却すると吹っ掛けた。フランス大使ロバート・リヴィングストンと特使のモンローはこの条件を呑んだ。1803年4月のこの出来事で、フランスは北アメリカ大陸への影響力をほぼ喪失し、逆にアメリカ合衆国の領土はまたしても一挙に二倍に増えた。・・・・・・しかしこの領土拡大は火種をなお残した。もともとスペインの土地だったため、どこまでアメリカがフランスから買ったのか実はよくわからなかったのである」(199-200)。

Original uploader was Sf46 at en.wikipedia – National Atlas of the United States, パブリック・ドメイン, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=3916410による

[J0598/250805]