Month: September 2025

石黒圭『文系研究者になる』

研究社、2021年。
アマゾンレビューで絶賛されていたので、目を通してみた。で、ちょっとだけメモ。

ここが一番熱かった。
「Q:研究テーマは指導教員に近いものを選んだほうがよいですか」。「A:可能であれば遠いテーマを選んだ方が安全です」。その弊害①指導教員の目が厳しくなる。②指導教員の先行研究を批判しにくい。③指導教員の研究との棲み分けに苦労する。④指導教員の枠内で似た研究を再生産することになる。⑤指導教員の枠外のアプローチが取りにくくなる。・・・・・・理路整然!

なるほどメモ。「コメントを増やす方法」。そのひとつ、発表者は参加者のコメントをもらうために複数のグループをわたりあるくという方法。あるいは、事前に参加者が発表資料に目を通しておくという方法。

ゼミ発表における「価値の低いコメント」の類型。
①不勉強にもとづくコメント:常識的感覚や想像力不足。
②誤解にもとづくコメント:思いこみや読み落とし。
③思慮不足のコメント:その場の思いつきや一面的な見方。
④評論家然としたコメント:代案のない原理的なコメント。

[J0606/250930]

宮本常一著作集6 「あとがき」から

『宮本常一著作集 第6巻』は、『家郷の訓』と『愛情は子供と共に』を収める。1967年、未来社刊。以下、「あとがき」からメモ。

『家郷の訓』は、三国書房の経営者花本英夫が、柳田國男に民俗学関係の図書の出版について相談したところ、宮本を紹介されたのがきっかけだったという。「ちょうどその頃私はデュルケムの「教育と社会学」をよんでひどく感心していたので、その書物を下敷にして、もっと具体的なものをかいて見たいと思っていた。そこで先生[柳田]にはそのことを言わないで花本さんに話すと、それでいいだろうというので、いそいでかいたのが「家郷の訓」であった」(288)。

「花本さんは広島県三原へ疎開しておられた。是非寄るようにとのことで三原のお宅をたずねたことがあるのだが、私はすっかりそのことを忘れていた。・・・・・・花本さんはそれから間もなく病気になって三原でなくなられた。そのことはどこかできいたのだが住所もおぼえておらず、おくやみも出さなかったように思う。それから二〇年がすぎて、最近私はまた時折三原をおとずれるようになった。そこに鮓本刀良意さんという実に熱心な民俗学者がいて、三原を中心にいろいろの調査をしており、おなじ町の能地という漁村の調査には特に力をそそいでいる。・・・・・・その情熱にひかされて私もまた三原をおとずれるようになったわけである。この町にはまたみどり屋という書店があって、そこの主人平田さんが私の著書を愛読して下さることから、町にはまた何人かの愛読者がおり、そういう人たちがあつまって歓談することになったが、その家が花本さんの家であり、二〇年あまりでお元気な未亡人にあうことができたし、戦後花本さんに逢ったのがこの家であったことも来て見て思い出せたのである。そして二〇年という年月がどんなに記憶を消してゆくものであるかもしみじみ考えさせられたのであった」(289-290)。

[J0605/250930]

今野円助『柳田國男随行記』

秋山書店、1983年。2022年には、今野圓輔『柳田國男先生随行記』として復刊。

木曽路から名古屋へ
霞と靄と霧と
御供のむつかしさ
奈良を経て京都へ
京都から神戸へ
瀬戸内海航路、別府まで
別府から小倉へ
「最近の文化運動と民俗学」(西部朝日新聞社講堂第一日目講演要旨)
小倉高女の講演と延命寺の昼食会(第六日目)
「九州と民俗学」(西部朝日新聞社講堂第二日目講演要旨)
長崎医大の座談会
天草・鹿児島を経て京町温泉へ
阿蘇の一夜
帰りの瀬戸内・神戸へ
神戸から蒲郡へ
柳翁随行後記:柳翁思い出草/柳田先生との対話抄

今野圓輔(円助)は、『日本怪談集』などで知られた折口信夫の弟子筋。昭和16年だから今野27歳の頃、柳田國男のお付きをしての旅行記。「緊張しづめの二週間のお供」。

まず、柳田國男が旅の車窓を眺めながら詳細な解説をしその驚異的な博覧強記ぶりを発揮して、土地土地で食事をしながら人に会う、その様子を書きとめてすばらしい紀行記になっている。

それから二度美味しいのがこの本、「後記」であれこれ柳田に(やんわりと)文句を垂れなどする今野や弟子たちの話がまた抜群におもしろい。謹厳だが何だかんだ人付き合いを大事にした柳田の人柄もうかがわれる。

国立国会図書館デジタルコレクション:https://dl.ndl.go.jp/pid/12224745/1/9

[J0604/250919]